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ー 学生運動などはもう落ち着いていたのですか。伊東 まだ残り火的なものがあって、六本松キャンパスは騒然としていましたね。学生会館は占拠されていましたし、私もクラスの仲間とデモに参加したりもしました。ざわついた時代でしたが、活気はありましたよ。私のような田舎から出てきた学生でも、これから日本は劇的に変わるんじゃないかという予感がしていました。今振り返れば、高度成長期の日本で、多感な学生生活を送っていたと思います。ー就職で航空業界を選ばれたのは、何か理由があったのですか。伊東 巡り合わせみたいなものです。地元の宮崎で働くつもりでしたが、全日空の試験を受けると、飛行機で東京に行けると聞いたので、全日空も受験することにしたのです。ただ東京に行きたかっただけのいたって不純な動機です(笑)。しかし、運良く採用してもらえることになって、東京で働くことになりました。騒然とするキャンパスで日本の変化を予感。ー大学時代はどのような学生生活を送られましたか。伊東 九州大学へ入学したのは1970年です。宮崎の田舎から出てきた私にとって福岡は大都会で、気持ちが高ぶっていました。仕送りが少なかったので、奨学金をもらって、アルバイトもしていました。市内にはまだ路面電車が走っていましたし、学食のうどんが25円くらいじゃなかったでしょうか。ーどんなアルバイトをされていましたか。伊東 家庭教師をしていました。一週間に一度でしたが、バイト後にその家でいただく晩ごはんとビールが楽しみでしたね。そのご家族とは今もお付き合いがあります。大学では経済学部に在籍していましたが、授業のほとんどはマルクス経済学で、近代経済学の授業は数えるほどしかありませんでした。ゼミは、国際経済を選択しました。指導教官は木下悦ニ先生で、今でも元気に執筆活動をなさっていらっしゃいます。聞き手菅沼 格(すがぬま いたる)九州大学経済学部3年ー入社後はどのような業務に関わられたのですか。伊東 私が入社した当時、全日空の国際線はまだ就航していませんでした。私たちの業界では、45/47体制と言っていますが、運輸省の指導によって、全日空は国際線を飛べないことになっていました。80年代に入ってこの規制が撤廃されて、会社にとって悲願であった国際線の開設に動きだしました。そんな中で私は、成田と中国・大連を結ぶ中国線の開設に携わることになりました。1987年4月の就航に向けて、その準備のため厳冬の大連に渡りました。当時の大連の主な移動手段は馬車。車はほとんど走っておらず、日本人も20?30人しか住んでいませんでした。周囲からは、なぜこんな場所に飛ばそうとするのかと言われたくらいです。しかし、準備期間を終え、成田から大連に飛んでくる最初の飛行機を地上で迎えたときは感無量でしたね。今でもその情景は鮮明に覚えています。厳冬の大連で中国線の開設に尽力。6 Kyushu University Campus Magazine_2012.7

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