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い意志はありませんでした。しかし、大学院時代の恩師(清野裕先生)はことあるごとに留学を勧めてくださっていました。日本学術振興会特別博士研究員の一年目に、先生が会長として主催された日本糖尿病学会にハーバード大学ジョスリン糖尿病センターからウイアー教授夫妻が招待されていました。休憩時間に会場の外でばったり会って雑談している時に「留学してもよいですか?」と尋ねたら、「もちろん」と即答されました。しかしあまりに簡単にOKが出たので、ジョークだと思っていました。 その年、アメリカ糖尿病学会で先述のインスリン遺伝子の転写調節と糖尿病マウスについての口述発表をしました。その会場に当日セッションの場所や時間が変更になったにもかかわらず、ウイアー教授夫妻がわざわざ来てくださって大変驚きました。セッションが終わるとウイアー教授がやって来て研究を褒めてくださり、「それで、いつから来られるの?」と訊かれました。坂田 留学中はいかがでしたか。稲田 ハーバード大学のジョスリン糖尿病センターで、6年間β細胞の供給源を追求する研究をしていました。教授から「β細胞の供給源を明らかにする」とテーマを渡されただけで、具体的な研究方法は自分で考案し、ディスカッションしながら進めてゆきました。実験はなかなかうまくいかず失敗の連続で、3年目に思い切って手法を少し変えて一からやり直しました。教授の期待に応えられないもどかしさやテーマの重要性、かかった費用のことなどを考えると、プレッシャーで眠れない日が続きました。それだけに4年目に顕微鏡下で膵管上皮細胞からβ細胞の分化を確認した時は涙がポロポロこぼれました。実はこの時期まで、研究をメインに据えた人生を歩むべきか迷っていたのですが、この瞬間に科学者として生きていこうと決心しました。同じ女性であるウイアー教授が活躍されているのを目の当たりにしたのも追い風となりました。櫻井 留学してよかったと思われるのはどんなことですか。稲田 ハーバードでは、教授から一対一で指導を受けました。私の実験ではマウス60数匹を教授と一緒に解剖したこともありましたし、細胞の観察も一緒に楽しんで行いました。教授は結果が待ち切れず、「どうなった?」と実験室までよく聞きに来られていました。そこが日本とは違うところでしたね。たぶん、緻密な実験テクニックは日本人の方がはるかにあると思いますし、留学先でよい論文を書いているのも日本人でした。実験器具や機械も日本の個々の研究室の方が多くて新しいものが整っていると思います。しかし、研究や個人に対する考え方、研究室のあり方等が日本と欧米では違うので、それを知ることは大きいと思います。正しい結果を導くために何度もトライする姿勢や、結果を出す楽しさ、オリジナリティの大切さも学びました。また、人の雇用や獲得した研究費によって研究室を運営している様子など、大学院の学生のときには気付かなかったものが見えました。櫻井 ハーバード大学に留学されていますが、そのきっかけは?稲田 中学時代に父がミネソタ州立大学から客員教授として招かれたことから家族でアメリカに住み、現地の中学へ通っていました。大学時代にも短期留学していましたので親しみはありましたが、アメリカに留学したいと言う特に強科学者生命を決めた留学生活Kyushu University Campus Magazine_2012.9 9

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