箱崎キャンパス正門



昭和初期の箱崎キャンパス正門と法文学部

 「まず、九州大学法文学部の正門の様子を描くと、こうである。四本の柱が立っている。内側の二本の柱が大きく、外側の二本の柱は小さい。柱の構造は、花崗岩で造られた土台の上に煉瓦を積み上げて置き、内側の二本の柱の先端には、電灯が取り付けてある。そして、二本の大きい柱の間には、一対の鉄格子の扉があり、また大きい柱と小さい柱の間には、各々一枚ずつ鉄格子の扉がついている。」

 1934年(昭和9年)に当時の法文学部を卒業した、朝鮮の文学者、金煥泰(キム・ファンテ)の「九大法文学部正門の表情」という文章の冒頭の一節である(注)。1931年に入学試験受験のためにはじめてこの門の前に立った金青年にとって、この門は不遜で冷淡な拒否の表情をもっていたという。現在も残っているこの正門は、1914年(大正3年)、九州帝国大学工科大学の建物の竣工に伴って設けられた。当初は、南南東に向けて立っており、門の前に立つと、工科大学本館(現在の建物とは異なるが、位置は同じ)が正面に見えた。現在のように南東に向けられたのは、1924年(大正13年)、法文学部の建物(当時)が建築されたときである。

 この門をくぐって入学した学生数は留学生も含めて10万人に達するだろう。金青年が入学した1931年には、1,756人の学生が在籍しており、そのうち金青年のような外国人学生は20名を数える。

 入学試験に合格し、再びこの正門の前に立ったとき、金青年を迎える正門の表情は、「母親の慈愛に満ちた笑みと、父親の厳しくも寛大な笑み」で包むようなものに変わっていた。

 「そして、どこからか声があった。『ここは、学び、人の道を修むる所なり。故に汝、真理を尋ね、徳を修むることにのみ喜びを見いだすべし。』低いけれど、しかし、骨の髄まで響くような強い口調で語った。この声に、説明はつかない敬虔な気持ちが沸き起こり、私は附属図書館前の芝生に行ってひざまずき、『今日から私の喜びは、ただ読み、考え、自ら鞭打つことにだけあります』と堅く心に誓った。」金煥泰は卒業後朝鮮に帰り、中学校の教師をしながら、文芸評論を通じて独立運動に参加する。そして、民族解放の前年、1944年5月26日、病気のために享年34歳で永眠する。

(注)この文章は、九州大学文学部同窓会「会報」第38号(1995年)に掲載された韓国語からの翻訳記事から引用させていただいた。金煥泰の略歴についても、その際付記されていた文学部柴田篤教授の「解説」に負う。記して謝意を表したい。

《正門の歴史》
 本文にあるとおり,この門は大正3年3月に建てられた。当時正門は工学部本館を左斜めから見る位置に南南東に向かって建っていたが,法文学部(大正13年4月起工,大正15(昭和元)年3月竣工)が建つのに合わせて,現在の位置に移された。現在の正門付近から工学部本館へ斜めに向かう道が,大正時代の正門の名残りである。


現在の箱崎キャンパス正門