「沈める寺」への誘い
−ドビュ ッシーとケルト伝説−

島松 和正  著


 ドビュッシーは不思議な音楽家である。ベラ・バルトークは「私たちの時代 の最大の作曲家」と言い,ピエール・ブーレーズは,20世紀の作曲家で彼の影 響下にないものはない,と考える。さらに先年亡くなった,我が国が世界に誇 る作曲家・武満徹は自分こそドビュッシーの後継と言って憚(はばか)らない。 ワーグナーによりその究極に達したかにみえた西洋音楽の歴史にさらに先があ ることを示し,20世紀の音楽に新しい地平をひらいた作曲家として位置づけら れるドビュッシー。しかし,これほど重要視される割には実際の演奏会でとり あげられることは少ない。では玄人(くろうと)好みの衒学(げんがく)的で 難解な音楽かというと,そうでもない。テレビ・コマーシャルやドラマ,映画 のなかに多用され,音楽を効果的に用いようとするプロはドビュッシーの音楽 の魔力を大いに利用している。我々は演奏会で聴かされるのではなく,日常そ れとなく聴かされているのだ。

 何故こんなことになっているのか。著者はドビュッシー音楽の本質的な部分 にプロの演奏技術のみではどうにもならない非常に繊細な感性が要求されるた めではないだろうか,と推察している。
 そこで著者の願いのひとつはもっと素直に演奏家たちがドビュッシーを演奏 会にとりあげるようになればということであった。そのためにはまず多くのひ とにドビュッシー音楽をアピールすることが必要である。著者は中学時代に聴 いてショックを受けて以来,ずっと引きずってきたドビュッシーのピアノ曲「 沈める寺」への想いを語ることをその手始めにした。そしてその印象的な音空 間を読者と分かち合いたい,と思ったのである。

 《まだ薄暗い朝,靄(もや)のかかった海を見ていると,気のせいだろうか 徐々に大海原が盛り上がってくるような感じがして,思わず後ずさりする。と, まず寺院の尖塔が波間に見えたかと思うと次第に寺院全体がその巨大な姿をあ らわし,最後にはその寺院を中心とした広大な,苔むした古い町全体が海の水 を滴(したた)らせながら浮かび上がってくる。
 どうだろう,一旦こんな夢想が習慣となってしまった者に,その呪縛から逃 れる術(すべ)はあるのだろうか−》

(東京経済,1998年8月刊,221頁)


筆者:島松 和正(しままつ かずまさ)
 昭和47年九州大学医学部卒。第二内科助手,腎疾患治療部講師を経て,現在 医療法人至誠会島松内科医院院長。医学博士。日本透析医学界評議員。