総長室にかかる孫文の書

石瀧 豊美


総長室に孫文の書

 九州大学の総長室に孫文の額がかかっている。タテ34.5cm,ヨコ113.5cm。全体 に黄色味を帯びた絹地に,右から左に「學道愛人」の4文字。左端に見覚えのある, 少し左に傾いた「孫文」の署名がある。孫文の書は肉太で,濃い同じ太さの線で, 筆先のかすれや,墨の濃淡があまり見られないのが特色である。書家の器用さはな いが,どこまでも端正な,几帳面な字体は,孫文の温かい人柄をしのばせる。
 実は県立三池工業高校(旧三井工業学校)の校長室にも同じような額があり,こ ちらは「開物成務」の4文字が書かれている。孫文は九大では「道を学ぶ」,三井 工業学校では「物を開く」と,それぞれにふさわしい言葉で揮毫(きごう)したの である。

 

福岡に来ていた孫文

 九州大学と三池工業高校の書は,どちらも年号はないが,大正2年(1913),孫文 が来日した折,訪問先で書かれたものにまちがいない。私の知る限り,福岡市内に はほかに二つ,そうした書が残っている。それは孫文と福岡県人との友情のあかし でもある。
 孫文(1866〜1925)は中国で「国父」と仰がれる人物である。生涯,中国革命の 苦難の道を歩んで屈しなかった。植民地化の危機にあった清国に,1911年,辛亥革 命が起こり,翌年には中華民国が樹立された。孫文は初代の臨時大総統に就任した。 まもなく袁世凱にその地位を譲り,前国家元首として来日,各地で大歓迎を受けた のである。
 孫文の来日は2月13日から3月23日までの39日間。福岡県には,3月17日門司に 上陸。20日大牟田を立つまでの4日間滞在し,明治専門学校(現九州工業大学), 八幡製鉄所,三池炭坑,三井工業学校などを視察した。孫文が福岡市を訪れたのは, かつて日本亡命中の孫文に献身的な支援を惜しまなかった旧友に,革命の成功を報 告するため。福岡市に本拠を置く政治結社,玄洋社に立ち寄り,聖福寺・崇福寺で 旧友の墓参を果たし,西中洲公会堂での歓迎会に臨むなど,短い滞在中に次々とス ケジュールをこなした。

 

九州大学参観と演説

 3月19日午後3時,孫文は崇福寺の玄洋社墓地から,隣接する九州帝国大学医科 大学(現九州大学医学部)へと向かった。総長山川健次郎は不在のため,伊東医科 大学長,中山大学医院長らが案内し,医院(附属病院)の各科も見学した。革命家 孫文は西洋医学を学んだ医学博士でもある。香港西医書院(香港大学医学部の前身) を首席で卒業していた。その目は専門家のものだ。
 午後5時,孫文は学友会の求めで講演を行った。「傍聴者は同大職員・学生およ び一般有志者にして,広き同教室もあふれんばかりの盛況を呈したり」と,当時の 新聞に報じられている。この時,孫文は,中国の発展は科学に負うところが大きい が学術,思想で先んじている日本の支援を期待している。ことに,現在の学者,将 来の学者である教授諸君,学生諸君の役割は大きい。学術,交流のさきがけとして, 両国の親善が深まることを願う,という意味のことを述べている。
 孫文の死後,日本は中国との戦争の道を歩んだ。孫文の願いの実現は今日に生き る私たちへと託されている。総長室に掲げられた孫文の額には日中親善のメッセー ジが秘められていることを,もっと広く知ってほしいと思う。

筆者:石瀧豊美(いしたき とよみ)
 近代史研究家。
 福岡教育大学非常勤講師(部落解放論)。近代史・部落史を専攻し,著書は『増 補版 玄洋社発掘』(西日本新聞社)など多数。