細胞内に広がる分子の世界〜細胞内情報伝達〜



歯学部口腔生化学講座   
教 授 平 田 雅 人
助教授 兼 松   隆

 ヒトの個体は,50〜70兆個にもおよぶ細胞から構成されているといいます。この多くの細胞からなる個体が複雑な生命現象を円滑に営むには,異なる器官・組織そしてそれらを構成する細胞系が細かいネットワークをつくり,その間で情報を交換していくシステムがなければなりません。このため生体内には神経系や内分泌系などを介した,細胞間の情報交換システムが備わっています。こうして細胞に届いた情報は,細胞膜を介して細胞内に伝搬され,あらかじめプログラムされた様々な反応を惹起して生物学的効果をもたらします。この細胞内の巧妙にプログラムされた経路を,細胞内情報伝達経路といいます。現在、細胞内情報伝達をつかさどる分子の研究が盛んに行われ,様々な生命現象が細胞内の分子レベル・遺伝子レベルで解明されつつあります。

 細胞外から伝わる多くの物質(情報)は,細胞膜表面にある受容体(アンテナ)でまずその情報が受け取られ,その信号を変換して細胞内に伝えます。そして様々な経路で情報が受け渡され,最終的にその情報は細胞の核に伝わり,様々な細胞応答が引き起こされます(図1・下段)。細胞内を伝わる情報経路は複雑ですが,お互い上手く調節しあって間違った信号が伝わらないような監視システムができています。しかし,この経路のどこかに異常が起き細胞が普通に機能を営めなくなると,例えば癌細胞といった悪い細胞に変身してしまいます。ですから細胞内で情報がどのように伝わっていくか詳細に調べて,どうゆう経路が良くてどうなったら悪い経路に進んでしまうのかを知ることが重要になってきます。

 細胞内情報伝達をつかさどる代表的な物質の一つにイノシトール1,4,5−三リン酸(Ins(1,4,5)P3)というものがあります。これは,細胞外の刺激に応答して,ホスホリパーゼCという酵素が,細胞膜を構成するリン脂質であるホスファチジルイノシトール二リン酸を加水分解することにより産生されるものです(図1・上段)。産生されたIns(1,4,5)P3は,細胞質中を拡散して小胞体に到達し,小胞体膜上のIns(1,4,5)P3受容体に結合して,小胞体が含有するCa2+を細胞質中に放出します。その結果,細胞質中のCa2+濃度が上昇し種々の細胞機能が発揮されます。産生された Ins(1,4,5)P3は二つの経路,すなわちイノシトール環の5位の脱リン酸化反応(5ーホスファターゼ)と3位のリン酸化反応(3ーキナーゼ)により代謝されます。この様にIns(1,4,5)P3は,Ins(1,4,5)P3受容体・5ーホスファターゼ・3ーキナーゼの少なくとも3種類の蛋白質に認識されることが分かっていました。

 我々の教室では,Ins(1,4,5)P3登場の早期からその化学修飾を手掛け,光親和標識するためのIns(1,4,5)P3類似化合物の合成とその利用に世界で初めて成功しました。これまでに種々のIns(1,4,5)P3類似化合物を合成し,その生理活性の検討を行ってきました。これらの研究を進める中で,上述した三つのIns(1,4,5)P3結合蛋白質の他に、ラット大脳から二つの新規Ins(1,4,5)P3結合蛋白質(分子量130,000と85,000)を単離しました。これらの蛋白質の部分アミノ酸配列から,85,000の分子はホスホリパーゼCデルタ(PLCδ)であり,一方130,000の分子は,データベースには未登録の新しい分子(p130と名付けた)であることが分かりました。そこでp130をつくる遺伝子を単離し配列を決めたところ,この分子は、PLCδとの類似領域を持つものの,PLCとしての酵素活性は有しない新しいタイプの分子であることが判明しました(図2)

 我々が,p130の細胞内機能を探っている時,日本のあるグループが,ヒトの肺癌細胞の多くの例で欠失している染色体領域に,PLCδと相同性の高い遺伝子が見つかったと報告しました。この遺伝子は癌抑制遺伝子の候補としてPLC-Lと名付けられ,p130とは,アミノ酸レベルで94%という高い相同性を示しました。さらに,ある種の肺癌において原発巣と脳転移巣の遺伝子変化を比較したところ,この欠失変異は,脳転移巣において優位にその欠失頻度が高かったと報告されました。つまり,p130蛋白質が癌発症・進行のメカニズムにかかわる可能性がでてきたわけです。現在,この点に関してさらに研究を進めています。

 我々の体の一つ一つの細胞が行っている細胞内の情報伝達,この経路は複雑です。しかし,間違った方向に行かないように巧妙に制御されています。この複雑な経路を一つ一つ糸をほぐすように解いていかなければ,生命現象の全体像は見えてこないのです。


図1(情報伝達経路)の説明
下段:一般的な情報伝達経路の概念図
上段:Ins(1,4,5)P3を介する細胞内情報伝達系の模式図
PLC:ホスホリパーゼ C / PIP2:ホスファチジルイノシトール(4,5)二リン酸
DG:ジアシルグリセロール /InsP3:ノシトール(1,4,5)三リン酸
InsP2:ノシトール(4,5)二リン酸 / InsP4:ノシトール(1,3,4,5)四リン酸
InsP3 受容体:ノシトール(1,4,5)三リン酸受容体 / Ca2+:カルシウムイオン
p130:新規ノシトール(1,4,5)三リン酸結合蛋白質(分子量 130,000)

図2(PLCδ・p130 分子の構造)の説明
PH:プレックストリン相同領域
EF hand:EF ハンド
X・Y:PLC 酵素活性中心
C2:C2 ドメイン
数字:アミノ酸数を示す