ドイツ古典小説翻訳に日本翻訳文化賞

ジャン・パウロを御存じですか?


恒吉 法海教授  翻訳本と楯
恒 吉 法 海(つねよし のりみ)
言語文化部教授
東京大学大学院修士課程修了
 ドイツ古典文芸期の小説家,ジャン・パウル(Jean Paul)の「ヘスペルス(HESPERUS)−あるいは45の犬の郵便日」(九州大学出版会)の翻訳により,日本翻訳家協会の第35回日本翻訳文化賞を受賞。

−受賞の対象となった本は約700頁,しかも難解ということで,翻訳には御苦労されたのではないですか?

 94年から95年にかけて2年間かかりました。ジャン・パウルは文章に癖があり,比喩過多でドイツ人でも読むのは容易でないのですが,現代の小説を先取りしたようなところもあり,今の視点から論じやすいとも言えます。J.J.ルソーを父とし,ローレンス・スターンを母とした作家と考えていただくと,ある程度は訳しがいがある作家と想像していただけましょうか。

 「ヘスペルス」とは宵の明星の意味で疲れた魂への慰謝を意味しますが,また明けの明星として希望も担っています。五分の三が物語,五分の一が読者との戯れ,残りが筋とはほとんど関係ない風刺や論説で,全編に脱線が見られ,慰謝としての物語と啓蒙批判が併存するといった作品です。作者は犬が運んでくる手紙を書き写すだけと称して,書き写すうちに物語の時間に追いつき,最後は作者自身も物語に関わる人物であると判明します。ジャン・パウルは,1795年に出版したこの作品でドイツで初めて筆一本の生活に入ったのですが,これは驚きです。

 ただ古見日嘉先生,鈴木武樹先生といったジャン・パウル研究のパイオニアが50代,40代で亡くなられ,この作家をやると長生きできないなどと言われています。

−どうしてそういう作家を研究対象に?

 ジャン・パウルに影響を与えたスターンはイギリスの作家で,奇想天外な趣向で漱石の「猫」にも影響を与えたといわれています。学生時代に朱牟田夏雄訳で「トリストラム・シャンディ」を読んで抱腹絶倒したことを思い出します。私の学生時代は大学紛争の時代で,なぜ学問するのかを厳しく問われました。これに対して私なりに考えて,荒唐無稽なことを書いた作家をまじめに論じ,学者の振りをして生きようという答を得ました。

 そこでジャン・パウルですが,日本人に読まれていない作品を論じてもむなしさが残り,翻訳して解説することにやりがいを感じ始めました。ゆっくり訳していると,読むだけでは分からなかった細部が見えてきて,もっときちんと細部を見届けたいという思いが生まれます。また,学者の世界も競争社会ですから,他人のやらないことをやらないと,という事情もあります。

−先生は鹿児島の御出身でいらっしゃいますが,鹿児島の進学校から東大の文学部へ行こうという学生は少なかったのではないでしょうか。なぜ文学をやろうとお考えになったのですか。

 鶴丸高校在学時は理系受験のクラスで理学部を志望していましたが,電気というものが実感としてよく分からないので,理学を諦めて文学へ行きました。理学,文学と実利にはあまり興味がありませんでした。ただ紛争で大学がつぶれるかもしれないという危機感が生まれ,食えるだろうということでドイツ語をやり,更に就職に有利ということで大学院に進みました。今は文学の学位が就職に有利ということはないようですが。

 修士を出て岡山大学に8年いて,33才で九大に来て18年が経ちました。鹿児島,東京,岡山,福岡と渡り歩いたため言葉が入り混じり,日本語の正しいアクセントが分からなくなりました。

−鹿児島の進学校では猛烈に勉強させられると聞きます。郷里にどういう印象をお持ちですか?

 鹿児島は地元に大きな産業が無く他所を目指さなくてはなりませんから,親や学校が子供に勉強させるのでしょう。昔の武の伝統が受験に向かった面が無きにしもあらず,かもしれません。私どもは「ギを言うな」とよく言われました。ギは「議」で,議論する前に実践しろという意味で,薩摩武士が戦いに強くあるために使った言葉だと思います。しかし今は腕力よりも言論の時代,戦争よりも外交交渉で利益を得る時代ですから,私どもの頃のようなスパルタ式教育は,鹿児島でも難しくなっているのではないでしょうか。 

−大著の翻訳を終えられて一段落かと思いますが,最後にこれからの御計画をお教えください。

 やはりジャン・パウルの未完の小説を翻訳しており,500頁くらいになりますが,近く出版する予定です。双子の兄弟の物語で,他のジャン・パウルの小説によく出てくるドッペルゲンガーめいた仕掛けがあります。これは名作でして,訳していて楽しかったです。まだ訳すべき本が1,000頁分くらい残っていますので,論文と並行して翻訳をやっていくと,まだ当分はジャン・パウルで持つんじゃないかと思っています。