生体における低摩擦と高摩擦

〜バイオトライボロジーの世界〜

工学部知能機械工学科教授  
村 上 輝 夫

摩擦のない世界では

 皆さんは,摩擦のない仮想の世界を想像したことがありますか?
 たとえば,路上を歩くとき,摩擦がすごく低ければ歩幅を狭くしたとしても滑りやすく,大変な苦労をせまられます。スキーのように滑って移動することは可能ですが,停止するのが大変です。一方,たとえば,関節の摩擦が高過ぎれば,歩くのも一苦労です。ほどよい摩擦あっての実在の世界なのです。
 生体における摩擦・摩耗・潤滑を対象とするバイオトライボロジーの世界の一端を紹介します。


生体における摩擦現象

(図1)  低摩擦の例としては,鰻のヌメリは実感できる一例でしょう。また,人体の筋・骨格系の滑らかな運動を可能にしている生体関節は,一般の低速度の滑り軸受に比べると非常に低い摩擦を維持しています。摩擦の程度を表現する場合に,摩擦力を垂直力で割った値を摩擦係数と定義していますが,関節の場合は,0.002〜0.02程度です。

 一方,手指のような指紋(隆線)を有する皮膚では,垂直力の2倍以上の摩擦力が得られ,巧妙な筆さばきや複雑な手作業,物体の把持を容易にしています。手指とガラス間の摩擦実測(図1)により確認できましたが,適度な湿分がある場合の方が,完全に乾燥している場合(固体摩擦)よりも摩擦が高く,垂直荷重が低いほど摩擦係数が増加します。これは,隆線頂部に存在する汗腺からの発汗が表面力(液膜による表面張力や粘着力などに起因)として寄与するためです。ロボットの手により,柔軟物体を上手に保持するためには,軽荷重における高摩擦という生体指の摩擦制御機構を再現することも有効でしょう。

 

生体関節における
多モード適応潤滑機構の解明と
人工関節への応用

 生体関節は,骨端部表層が高含水性で軟質の関節軟骨で被覆されており,関節液により潤滑された軸受に相当しますが,優れた低摩擦性を示すとともに,70〜80年(約108歩行サイクル)以上の長期耐久性(低摩耗性)を有します。

 一方,超高分子量ポリエチレンと耐食性金属またはセラミックスとの組合せから構成される人工関節は,摩擦は若干高めですが,10年以上の耐久性を有し,関節機能の回復や疼痛の除去という恩恵をもたらしています。

 人工関節の耐久限界は,骨との緩みの発生が主因であり,摩耗の発生や過大摩擦力がその誘因と考えられるため,摩耗と摩擦を低減させる試みが研究されています。これらは,ポリエチレンの耐摩耗性自体を向上させる試みや,セラミックス同士や金属同士の高精度股関節の開発,生体関節軟骨の代替となる人工軟骨を導入する場合に大別されます。

 人工軟骨の利点は,生体関節軟骨の場合と同様に,その弾性変形効果と二次関節液の粘性効果に基づく弾性流体潤滑機構が機能し,摩擦面間に流体潤滑膜が形成されやすくなることです。高含水ハイドロゲル系人工軟骨を有する人工膝関節について,歩行運動に対する数値解析では,1μm程度の流体膜形成が予測され,歩行模擬シミュレータ試験では,潤滑液がヒアルロン酸と蛋白成分を含有する場合には高荷重下でも低摩擦を実現できること(図2)が検証されました。

(図2)

 この低摩擦は,ヒアルロン酸粘性流体膜と蛋白吸着膜の相乗作用によるものですが,多様な日常動作では,直接接触が生じる可能性も多く,そのような過酷な条件における生体関節の潤滑機構を解明して設計に反映することが有用になります。

 関節軟骨表面は,1〜2μmの凹凸を有するがなだらかであることが原子間力顕微鏡により確認できました。しかし,この隆起部も,摩擦面では弾性変形により平坦化するため,歩行時には軟骨同士の干渉は避けられるようです。長時間起立後の始動時等には軟骨面間で局所的な直接接触も生じる(図3)と考えられますが,軽度の接触が生じると,その近傍と外周間に圧力こう配が生じ,軟骨内から液体が滲出し,潤滑状態を改善します。

 また,接触面は,リン脂質や蛋白,糖蛋白等から構成される吸着膜や,プロテオグリカンを主体とするゲル膜で被覆されており,そのような表面膜は,せん断抵抗も低く,母材の摩耗を防ぐバリアーともなります。このように,生体関節は,多モード適応潤滑機構(図3)により摩擦の過酷度の変化に対応していることがわかりましたが,表面膜の自己組織化・修復機構については詳細な解明が必要とされています。

 また,人工軟骨については,これらの知見を活かして潤滑性と耐久性をさらに向上させるとともに長期的な生体適合性の評価を行い,臨床応用へ実用化することが期待されています。

(図3)