文献方言史研究
迫 野 虔 徳 著
方言研究と言えばフィールドワークというのが常識的なところ。そういう意味では「文献方言史」という題名に軽い驚きを感じる人もあるかもしれない。しかし,本書は方言的バリーションをも含み込んだ上での日本語史の研究であり,手堅い文献学に基礎を置くのはむしろ当然なのである。
本書の特色は,文献上に記録された過去の方言事象をもとにして日本語の地下水脈を丹念に探るところにあり,日本語史研究に新たな地平を開いた功績で平成10年度新村出賞に輝いている。
方言そのものに言及した過去の文献や,記述者の属する地域の口頭語が端なくも露呈しているような文献を,著者は「地方語文献」と呼び,長年にわたってその発掘と分析を精力的に行なってきた。一般に己れの書記法を持たない方言は,メタ言語的に記述される以外はもともと文献に載りにくい性質のものであるが,著者は独自の嗅覚をもってそれを的確に探りあて,記録者の言語や書記法によってかかるバイアスを十分に吟味した上で,言語史的な位置付けを行うのである。例えば,防人歌の万葉仮名表記から奈良時代東国方言の母音を推定し,ロシア資料を駆使して18世紀の東北方言や薩摩方言の音韻に新たな角度から光をあて,ハングル資料やキリシタン資料から中世末の九州方言の諸相を浮き彫りにする,等々。また,ともすると見落しがちな微妙な仮名字体の使い分けと,一見奇妙なその用法とから,記録者の方言の音節構造へ深く分け入ってゆくあたりの手法は,じつに鮮やかである。
現代の方言的事実から遡上的に日本語の歴史を考える「方言国語史」を積極的に提唱したのは本学名誉教授の故奥村三雄氏だったが,本書の著者は,各種の文献から丹念に掘り起こした過去の方言的事実の束をそれに重ねることに成功しており,日本語史研究に厚みを増したと言えよう。
(清文堂,1998年2月刊,404頁)
(さこの ふみのり 文学部教授)文責:高山 倫明
(たかやま みちあき 文学部助教授)