旧樺太演習林を訪ねて
附属演習林研究部
旧樺太演習林の変遷
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◆ 設置の頃
1912年に,当時の樺太庁から約2万haの国有林を大学に所管換えして樺太演習林を設置した。その 後,実地調査を行い,実際の面積を20,335.5haに確定して移管を受けた。しかし,交通不便で開発で きず,森林の保護管理のみを行っていた。1925年(大正14年)に至って,「施業案」(林学の専門用 語で森林管理のための基本計画)を編成して実行し,演習林の活動が開始された。また,1924年には ガステロ(内路)に事務所を,1928年(昭和3年)にポロナイスク(敷香)に事務所及びブユクリ( 保恵)に作業所を建設している。1932年(昭和7年)に,「樺太演習林要覧」を作成して,大学演習 林の沿革,位置・面積,地況(地形,地質,気候など),林況(森林の状態),施業(実際の伐採, 搬出,造林,保護の計画),調査・研究・試験,学生の実習などの活動内容を紹介している。学生の 実地実習は,1928年から毎年夏季に行われている。当時の教職員は,助教授1名,助手1名,嘱託1 名,雇員3名と記されている。特に,「演習林報告」第1号として,「樺太演習林に於ける植物生態調査」(植村恒三郎教授,田 中祐一助手)が,1931年(昭和6年)に発刊されており,演習林の研究活動は,樺太演習林から開始 されている。
◆ 活 動
森林の管理は,考え方としては現在とそう大きくは変わっていない。森林の状態に応じて,循環型 の資源利用を計画している。具体的には,エゾマツ,トドマツの原生林(直径15cm〜90cm)を主要な 木材資源として,150年の輪伐期(ある区画を順番に伐採,植栽し,150年でもとの森林に戻し,循環 利用する)として計画されている。それらの森林の中に,多くの試験地を設け,循環型資源利用のた めの研究を開始している。また,保護・防火樹帯を定めるとともに,学術的に貴重な森林の保全を行 っている。森林の利用は,王子製紙株式会社と払い下げ契約を行い,新たに森林鉄道を布設して1929年(昭和 4年)から搬出を始めている。1926年から樺太演習林は収益を挙げるようになり,1935年の演習林の 年収入は,支出の倍以上であって,大学の特別会計法に従い大学の維持費の一部となり,本学の校舎 建設等に多大な貢献をした。
◆ 敗戦からソ連時代
1945年の敗戦によって,樺太演習林を含む外地演習林は全て消滅した。その経過,研究資料などは ほとんど残存していない。多分,相当の混乱の中で,現地の担当者は引き揚げてきたに違いない。演 習林全体も混乱しており,1945年(昭和20年)から1946年(昭和21年)まで「演習林報告」は発行さ れていない。周知のごとく,ソ連邦の崩壊まで鉄のカーテンに閉ざされ,その実態は不明であった。 我々は実に54年ぶりに,旧樺太演習林の地に立ったのである。ソ連では土地はすべて国有であるので,演習林も国有林となって,サハリン州スミルヌフ営林署の 管轄,ブユクリ担当区の森林となった。しかし,エゾマツ,トドマツ(直径70cm程度)の平地林1,500 haは,1954年から伐採され,国営農場,牧場として開発・造成された。牧場では3,000頭の牛を飼い, 農場ではジャガイモを生産していたらしい。1992年から93年のペレストロイカ後は,多分経営状態が よくないのであろう,放置され,現在は草地化して200頭程度の牛を飼っているにすぎない。
1957年には,道路沿いのエゾマツ,トドマツ,グイマツ林が林野火災で焼け,現在はシラカンバ等 の再生林となっている。
また,農場化した奥地には,トドマツの天然更新を行っている林地がわずかに残っており,100年生 以上のトドマツや日本時代の伐根も見られた。なお,この付近一帯は,1971年から伐採年数に達して いないので伐採を行っていないということである。盗伐,林野火災も多く発生し,樹木には焼け跡も 見られた。ブユクリ担当区では,盗伐監視,火災跡地の造林などを行っているが,特に重要な仕事と して,林野火災の監視をあげていた。サハリンでは,毎年5月から10月にかけて林野火災が発生し, その大部分は,たき火,タバコの投げ捨てによるものである。ちなみに,旧樺太演習林では,「火災 取締規定」を設け,たき火,タバコの管理などを厳しく取り締まっていた。
◆ 痕 跡
ブユクリ(保恵)の旧演習林作業所は,1981年8月のフィルス台風による土石流で流失し,作業所 のあった位置は確認できたが,その痕跡を見つけることはできなかった。また,森林鉄道跡地も,一 部に盛り土が残っているだけで,枕木などの遺物は皆無であった。スミルヌフ営林署には,「盗伐ス ルナ」などとカタカナで書かれた当時の演習林の管理標識が,5種類15枚程度保管されており,今回 の調査のなかで,唯一の日本時代の遺品であった。
ポロナイスク(敷香)の演習林事務所と宿舎は,聞き込み調査ではポロナイスク商業港の一角にあ ったことが判明,「漁師会館」として1976年まで利用され,その後1980年に取り壊された。旧事務所 跡地一帯は,港湾事務所の船体修理場,資材置場などとなっていたが,ここでも事務所等の痕跡や遺 物は全くなかった。ガステロ(内路)にあった演習林事務所は,位置さえ不明であったが,日本人が 住んでいた木造住居(出窓が特徴らしい)が残っており,かろうじてその面影を感じることができた。
以上のように,旧樺太演習林は,やはり長い年月によって施設などはすっかりなくなっていた。同様 に,森林においても,農場,牧場へと開発,転換され,もっとも良好な林相とその150年という壮大な 施業計画も破壊されてしまった。施設などは,長い年月経てば,自然災害による破壊や古くなり取り 壊されることは仕方のないことなので,もう少し早く訪問できていたらという残念な思いであった。
また,森林の開発管理も,時として社会状態,経済状態で大きく変わり,開発が行われるのも当然 のことである。しかし,「大学演習林」は,調査研究,学生教育のフィールドであり,もし九州大学 演習林として続いていたならば,少なくとも農場等への開発はなく,150年という長いタイムスパンで あっても,現在約半分の75年の研究成果が蓄積されているはずであり,北方林の研究が大いに進展し ていたにちがいない。特に,北方林が地球の気候環境に重大な影響を与えることが判明しつつある今 日,大学演習林としての使命は大きくクローズアップされてきたであろう。このことを思うと,まさ に取り返しがつかないような気がしてならない。そこで,今回の調査での教訓的なこととして,国家 間のトラブルなどで森林管理者は変わっても,長期にわたる研究計画が続行できるような,地球的ス ケールでの森林研究システムを構築することの重要性を強調しておきたい。