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概要

九大広報Vol.100

からは医学専門部(1939年設置)も含めて医学部への留学生が多く、満洲からは法文学部への留学生が多い。 学部別では法文学部、医学部、農学部、工学部の順(グラフ3)であり、種別の比率は、学生64%、専攻生25%、大学院生5%、医学専門部生徒4%、生徒・その他2%(グラフ4)となっている。 朝鮮、台湾は学生の比率が高いが、中華民国の場合は学生の比率が比較的低く、専攻生の比率が高いのが特徴である*4 。専攻生とは大学・専門学校等の卒業者が大学院生に準じた形で入学するもので、医、農、法文学部はその受入れに積極的であった。また、東京、京都といった先発帝大が、「中学(旧制)↓高校(旧制)↓帝大」という男子に限定された、いわゆる「正系」コースの受入れしか行わず、九州帝大でも正規の学生として女性が在学した学部は法文学部だけであったことから考えると、医、農両学部で20名の女子専攻生を受け入れ、9名の専攻生に博士号を授与した医学部の対応等には注目できる。 九州帝国大学と 朝鮮との深い関係 九州帝大の場合、前述のように学部別では法文学部への留学が一番多かったが、それは文系学部が法文学部のみであったこととともに、同学部独自のあり方にも理由があった。法文学部には、1925(大正14)年4月、第一回生202名が入学したが、このうち高卒者61名と学士入学者13名が無試験入学で、残り128名はいわゆる「傍系」入学者であった。「傍系」とは「正系」とは異なり、「専門学校(旧制)↓帝大」のように高校(旧制)を経ないコースをいう。この「傍系」入学の比率が法文学部の場合、平均47%と高率だったのである(1925年?1943年の平均)。また、同学部には正規の学生だけではなく、専攻生、聴講生、選科生の在学も多かった。そしてこのような法文学部の多様性が、留学生受入れにも大きく関係していた。このことは、①法文学部の外国人比率が他の帝大文系学部に比べて高いこと(九州5.9%、東北3.3%、京都3.0%、東京1.1%)②法文学部への留学者で出身校が判明する者(約200名)のうち、7割が「傍系」出身者(朝鮮出身者では8割)であるという事実が雄弁に物語っている。 たとえば朝鮮では、創立当初、医学部と法文学部から構成されていた京城帝大(現ソウル大学校)での朝鮮人比率は、医学部で27%、法文学部で約40%といわれ、同大に予科があったことも考慮すれば、朝鮮人にとって京城帝大への進学がたやすいものでなかったことは容易に想像がつく。一方、九州帝大法文学部の朝鮮人学生の出身校を判明する範囲で列挙すると、京城法学専門学校、普成専門学校、延禧専門学校、崇実専門学校、京城高等商業学校などとなっている。その数の多さに注目できるが、これらの学校が後に、国立ソウル大学校や、高麗大学校、延世大学校などへと系譜的に繋がることからすれば、九州帝大(法文学部)と朝鮮近代高等教育機関の間には密接な関係があったといわざるをえない。このほか水原高等農林学校(戦後ソウル大学校農科大学へ)からは11名が農学部に留学しているが、湯川又夫元農学部長が同校の校長を務めるなど、同校と九州帝大農学部との間にも深い関係があった。 しかしこれらの事実は、軍医養成のために設置された臨時附属医学専門部(1939年設置)への留学は朝鮮人と台湾人に限られていたこと、前述のように朝鮮、台湾からは中国人の「専攻生」の多さに比べて「学生」としての入学(留学)が多かったことなどと 「満洲国建国10周年記念晩餐会」(1942年)於三畏閣。前列右から5人目荒川文六第六代総長。右側の「国旗」は「満洲国国旗」。UNIVERSITY Campus Magazine 2015.1023KYUSHU