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概要

九大広報Vol.100

同様、朝鮮、台湾が日本の「一部」(植民地)として扱われていたことも明示している。中国人留学生が書いた当時の日本人像 戦時期を除き、学園では講義や各地への見学旅行、懇親会等が日常的に行われていた。中国人女子留学生で1931(昭和6)年に法文学部(法科)に入学した朱毅如は、「モダン中華服、時にスマートな洋服を着た一人の斷髪美人が毎日欠かさず我が法文学部の教室に現はれる、彼女は一体誰だらうか?」 *5 と評される人物だった。彼女の日中女子学生を比較した文章が残されている *6 。 概要を示せば、共通点として「運動を好まないこと。お菓子が好きなこと。相当お洒落で活動(映画)を見ること。一切の問題について其の真相を知らうとしないこと。主観的な意見や批評のないこと。暇な時はスターや役者のことを批評し又は他人の長所短所を噂すること」、相違点として「日本の女子学生の比率が僅少であること。日本人は謙遜であるが思想は保守主義が多いこと。日本人学生の家庭は全部富裕であり極めて倹約家であるが、中国は貧富の懸隔が甚だしいこと。日本人は家庭の手伝いをするが、中国人は家庭内の一切の事は全くかまわないこと。中国人はどの学科であっても時事に関心を持ち新聞を読むが、日本人は文科(文学)の学生は新聞と無関係であること、中国人女子学生は試験は通れば良いと考えるが、日本人は点数主義であること。日本の女子学生は男子学生と交際することが極めて少ない、対して中国人は男子学生と学術について論じ合う。日本人は縁談があればいつでも学業を廃業して結婚するが、中国人は中退しない。また、日本人の卒業後の就職は極めて少ないが、これは結婚が最も安全な帰着点と考えていることによろう。これに対して中国人は自己の目的に到達しようとして積極的態度をとり、十中八九は就職する」といった趣旨の文章が記されている(一部筆者改変)。現在にも通じる比較論として興味深い内容である。 ところで、ある一定期間のデータながら帝大における外国人学生比率が「ほぼ同程度であった」とする記述がある *7 。しかし、これは依拠した資料等に問題があると考えられ、おそらく正確ではない。「留学生受入れには消極的」 *8だったとされる東京大学に対し、本学は創立期から多くの留学生を受け入れた。これは単に九州が大陸に近かったというだけでなく、前述した医学部や法文学部等に見られる本学独自の取組の成果とみなすべきであろう。戦争で中断されたとはいえ、戦前期の留学生受入れのありようが、戦後、ひいては現在に繋がっているということを改めて確認して擱筆したい。14)郭沫若の母校再訪(1955年12月17日)医学部出身の郭沫若は中国科学院院長として32年ぶりに母校を訪ね、講演会を行った(於医学部中央講堂)。郭沫若については「Column歴史散策?」も参照。*1 『2015年度 九州大学概要 資料編』より。*2 国立大学では『九州大学五十年史 通史』(1967年)、『九州大学七十五年史 通史編』(1992年)、『東京大学百年史 通史二』(1985年)、『東北大学百年史 三』(2010年)に立項がなされ、また永田英明「戦前期東北大学における留学生受入の展開―中国人学生を中心に―」(『東北大学史料館紀要』一、2006年)が報告されているくらいである。*3 2002年度?2003年度科学研究費基盤研究(C)(2)。代表折田悦郎。*4 学生の割合は朝鮮87%、台湾76%、中華民国51%。中華民国はほかに専攻生40%、大学院生7%がいる。*5 『九州帝国大学新聞』58号。1931年5月5日。*6 「日支女子大学生の比較」(『日華学報』51号。1935年5月)。本資料については、佐喜本愛「九州帝国大学女子留学生に関する一考察」(『報告書』)が詳しい。*7 『日本近代教育百年史 4』(1974年)1289?1990頁。*8 『東京大学百年史 通史二』(1985年)758頁。創刊100号記念特集④24 KYUSHU UNIVERSITY Campus Magazine 2015.10