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5Kyushu University Campus Magazine_2010.5に出るのが慣習のようになっていまして、私も縁があって28歳のときワシントン大学医学校に参りました。ところが、全く思いもかけず、渡米一年後に教授ががんで亡くなってしまいました。これで全てが水泡に帰するところでしたが、米国では若輩の外国人であっても、しっかり実力を発揮し、良い仕事をすれば、素直に評価をしてくれるところがあり、幸い私は研究を続けることができました。また、私が最初サバティカルリーブで行ったハーバード大学では、12年ほどの研究でも実態がはっきりしなかった新血管造成因子遺伝子を、着任後幸い2ヵ月くらいでクローニングしましたら、後にミシガン大に移籍するまで破格の待遇をしてくれました。―結果的に約30年にわたって米国で研究者生活を送られました。日本に戻ってこられてからは、日米の違いもいろいろとお感じになっておられるでしょうね。倉地 いろいろな経験をしましたが、例えば、若手研究者による研究成果発表会に出席した時のことです。ある若手研究者が重要な機能遺伝子を同定し、siRNA手法により、その発現をノックダウンしたところ、結果は予想に反したものになりました。そのとき私が驚いたのは、研究所のシニア研究者の一人が「既成のドグマと矛盾する結果しか得ていないから論文が出せない」と、矛盾する実験結果を得たことがあたかも間違いのような発言をしたことです。同じ場面が米国で起きたとします。シニア研究者は間違いなく「君の発見は面白いぞ、もっと突っ込んで検証し、本質を見極めるべきだ。大きな発見になるかもしれない」と元気付けます。既知の知識と矛盾する実験結果を得た時と、既知の答えがない素朴な疑問に遭遇した時こそ、大発見につながる可能性が高いからです。もし、矛盾がなく、見事に理論に合った研究成果ばかりを出す研究者がいたら、手を変え品を変え、既知の原理を繰り返し検証しているだけの追随型研究者かもしれません。―米国の方が萌芽的な研究を受け入れる空気があるのでしょうか。倉地 米国では決まりきったことばかり続けていたら研究費は取れなくなります。だから、研究者は絶えず頭をシャープにして考えるのです。そして創造的で非常に新しいことを学会で発表すると、間髪を入れず「これは面白いからメディアに流そう」ということになります。米国では、新しいもの、オリジナリティの高いものを非常に大切にします。勿論、日本でも独創的で面白い研究をしようと努力している人は多いと思いますが、その価値を理解する人が少なく、従って研究費の獲得には大きな困難が伴う、と感じています。日本では、政府が重点研究分野やキーワードを決めると、研究者は研究費を獲得するために雪崩をうったようにそれに向かいます。この様な状況は、我が国の風土、システムの中で醸成され、進化し、研究者にインプリントされた癖となっています。こういった現象を見ると、日本の研究者の多くは、研究に対する純粋な興味よりも、目先の予算獲得の利益を追っているような気がしてなりません。―米国での研究者生活で、ほかにもお感じになられたことはございますか。倉地 一つ挙げるとすると、言葉の持つ重要性でしょうか。例えば、ファカルティーミーティング(教授会)等で一言も発言せずにいると、米国では無視されてしまいます。かといって、発言しても内容がいい加減であれば、これもやはり軽く見られます。ですから発言の一つ一つが知識や論理に裏打ちされたものでなければなりません。米国社会は、実質のコミュニケーションをとても大切にします。このことが活力を生んでいる源の一つだと思います。ミシガン大学時代の倉地理事(右) 1999年(平成11年) 左は奥様のすみ子さん (ミシガン大学the University RECORDの許可を得て掲載)

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