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6Kyushu University Campus Magazine_2010.9社会保障について、若い世代にもっと関心を持ってほしい。インタビューシリーズ・九大人 佐藤 義雄学生運動が先鋭化し、学内が騒然としていた学生時代鮎川 九州大学で、どのような学生生活を送られましたか。佐藤 一つ違いの弟がいまして、仲が良かったしライバルでもありました。たまたま二人とも九州大学の法学部を志望しまして、ともに一浪して入学しました。私と弟が通っていた小倉高校は予備校も併設していて、実力テストでは浪人生と現役生を合わせて成績順位がつけられるので、浪人の時は、現役の弟だけには負けられないと思ってがんばりました。弟がいなかったらあんなに勉強しなかったかもしれません。けれども残念ながら、弟は既に他界してしまいました。私が入学したのは昭和44年で、ちょうど東大の安田講堂事件の年です。今も普天間基地の問題で日米安保条約が話題になっていますが、当時は70年安保闘争のときで、学生運動が先鋭化し、学内外が騒然としていました。九大でも、前年に箱崎キャンパスに米軍のファントム偵察機が墜落する事故があったこともあって、学生運動に傾く学生が多かったんです。私が入学してからすぐに、学生による授業ボイコットが起こり、六本松キャンパスの学生会館などはバリケードで封鎖されて、一般の学生が近づけない状態になりました。それが5ヶ月くらい続いたんです。結局、学内の秩序を守らなければならないと、大学が機動隊を導入して紛争を終結させました。そんな時代だったから、政治や人間というものに興味を持ち、法学部では、法律ではなく政治学を専攻しました。私には、歴史や人間を考える有意義な時期だったと思います。しかし、就職活動の時、ある銀行の試験官に「君は銀行を受ける資格はない」と一喝されましてね。法律をちゃんと勉強していなくてはダメだと。まあ、その時の私の反応を見ていたんでしょうけど、あえなく討ち死にです。鮎川 就職先に生命保険会社を選ばれたのはどうしてでしょうか?佐藤 そんなに高邁な使命感を持って入ったというわけではありません。祖母が生命保険の会社に勤めていましたので、その影響は大きかったでしょうね。祖父が結核を患って40代で他界してから、祖母は家計を支えるために、生命保険の販売の仕事をしていました。それで、私は祖母から保険についていろんな話を聞いていましたから、他の人よりは保険業界がどんなものかはわかっていたと思います。でも祖母は、いざ私が住友生命に入ると言うと、かなり反対しました。ハードワークについていけるか心配していたんですよ。お客さまの声を聞くことが、会社を改善し前へ進める萩尾 長年、保険の仕事に携わってこられて、どんな時に良かったと思われますか。佐藤 保険会社は、お客さまとのお付き合いが長期にわたりますから、ちょっとした行き違いで苦情も生まれやすいんです。けれど、お客さまもちゃんと見てくれていて、何かが起こった時に、しっかり対応してお役に立てれば感謝の言葉をいただけます。保険に入る必要があるのかと本学在学時の佐藤社長(向かって左)。向かって右は法学部で同級生だった土屋春男さん(現 (株)日鉄エレックス常務取締役)昭和47年頃

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