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ず、試験と試験の間に西新の映画館まで観に行ったこともありました。また、ある大学に「美学科」という学科があるのを知って、このまま工学部の勉強を続けるべきか悩んだ時期もありましたね。芸術への興味を抑えきれなかったのです。でも、せっかく工学部に入ったのだから、自分が満足できるところまでやってみようと思いました。それで就職も、化学系の会社のエンジニア職を選んだのです。ー エンジニア時代、海外にもよく行かれていたとお聞きしていますが、どのような仕事をされていたのですか。安達 会社がプロピレンのフィルムの製造をしていまして、私はその製造プラントを外国に販売するセクションにいました。プラントの設計や組み立てをしたり、海外に機械の使い方を教えに行ったりしていました。ドイツに半年ほど赴任していたこともあります。赴任中、休みの日はヨーロッパの美術館巡りに夢中でしたよ。ーお話を聞いていると、仕事はとても充実されていたように感じますが、どうして会社を辞めようと思われたのですか。工学部卒業後、エンジニアとして海外でも活躍。ー竹久夢二の研究からは想像しにくいのですが、大学は工学部のご出身でいらっしゃいますね。安達 会社員時代は機械の設計図などを描いていましたので、創造という観点でいえば、私の中ではそれほどかけ離れたことではないのです。芸術には昔から関心を持っていました。また、高校生の頃は、理系科目が好きな反面、古典などにも興味を持っていたので、文系か理系か、進路を決めるにあたってかなり気持ちが揺れていました。でも、ちょうど私が大学に入学する頃、九州大学に化学機械工学科ができまして、化学と機械の融合というのは当時珍しく、おもしろそうな学科だなと思い工学部に進むことを決意しました。ー大学生活はいかがでしたか。安達 自慢ではないのですが、勉強した記憶がありません(笑)。子どもの頃から映画が好きで、観たい映画がその日で上映を終了してしまうことを知って、試験期間中にも関わら聞き手諌山 りさ(いさやま りさ)九州大学文学部4年安達 入社して9年後に、会社が倒産したのです。当時、「戦後最大の倒産」と言われ話題になりました。しかし、私のセクションは、海外の取引先から2〜3年先の仕事まで受注していて、毎晩、徹夜で働いていましたから、倒産など夢にも思っていませんでした。倒産当日に取引先の方から話を聞いて、本当にショックでしたね。結局、会社更生法が適用されて会社は立ち直りましたが、その件をきっかけに退職を考えるようになりました。ドイツのプロジェクトが終わり、次のプロジェクトも決まっていたのですが、私の中では、「やるだけやった」という思いが強かったのです。それで退職することにしました。ー退職を決意されたとき、次の仕事のビジョンなど描いていらっしゃったのですか。安達 具体的なことは何もなく、漠然としていました。ただ、ドイツに滞在中、ドイツ人は日常の生活の中に美術を上手に取り入れて楽しんで4 Kyushu University Campus Magazine_2012.11退職後、欧州の複製画を輸入しギャラリーを主宰。

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