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4  Kyushu University Campus Magazine_2014.1プログラミングして映像を作り出す方が向いているように思っていました。運がいいことに、私が4年生のとき、線画でディスプレイに図形を描けるコンピュータが芸工大に入ってきたのです。東大や京大など、日本でも数カ所にしか入っていない最新のものでした。私のひとつ上の学年までは、ドラムの紙の上にXYプロッタで図形を描いていましたから、もし1年早く入学していたら今の私はなかったと思います。佐藤 芸工大卒業後は大学院に進まれていますね。河口 当時、芸工大には大学院がありませんでした。それで、国立大学でCGを学べる所を探していたら、東京教育大学(現、筑波大学)にあったのです。しかし、東京教育大学は筑波への移転準備に予算をかけていたため、大学院にコンピュータがなく、無事合格したものの今後どうやって研究を続けようか悩んでいたところ、偶然、通産省の工業技術院製品科学研究所に芸工大と同じコンピュータがあることを知り、大学院とかけもちして研究所でも勉強させてもらうことにしました。芸工大で作っていたCGのプログラムもそのコンピュータで読むことができたので、それまでの成果を無駄にせずに済んで本当によかったです。佐藤 研究所ではどのようなことをされていたのですか?河口 研究所は、特許庁申請のためのCGを作ったり、身障者用の工業製品のデザインを作ったりしていました。ですから、仲間がいるときは工業デザインの仕事を手伝い、自分の研究はみんなが帰った深夜にやっていました。映像系なのに、工業デザインの勉強もしなければならなかったのできつかったです。佐藤 その経験が今の立体の作品につながっているのかもしれませんね。河口 確かに映像系だと立体に起こせるほど緻密な画像は作らないので立体感覚はあまり養えない。今思えばいい勉強になったと思います。佐藤 研究所にはどのくらいいらしたのですか。河口 大学院を修了後1年くらい残っていました。しかし、東京教育大学が筑波に移転するのと同時に、研究所も筑波へ移転することになり、また居場所に悩むことになったのです。しかし、タイミングよく新宿の専門学校から誘いがあり、週に1回でいいので来てほしいと言われたので引き受けることにしました。今にして思えばこの選択が良かった。数ヶ月後、突然、学部長からアメリカのCG学会に一緒に付いてきてほしいと言われたのです。それは、権威あるCGの学会SIGGRAPHでした。当時、日本のCGは白黒の線画だったのですが、学会で見たCGは色が付い佐藤 1970年代のコンピュータ・グラフィックス(以下、CG)の黎明期から研究・制作に着手されていますが、CGの研究・制作に携わられたきっかけを教えてください。河口 私は種子島出身で、打ち上げを見て育ったので、常に宇宙がテーマにあります。CGを始めたのは大学4年生からで、自分のなかでは、撮影して映像を作るより、九州芸術工科大学で出合ったコンピュータが未来を変えた。米国の国際学会で発表したCG作品「グロースモデル」が絶賛される。《聞き手》まさる▲学生時代※1佐藤 優副学長/芸術工学研究院教授/芸術工学図書館長/新キャンパス計画推進室副室長  

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