第3代総長大工原銀太郎のデスマスク 九大史料室へ

農学研究院助教授 和田信一郎

 大工原先生は大正10年に兼任教授として農商務省農事試験場から九州帝国大学に赴任され、大正11年7月に旧農学部農芸化学科第1講座(土壌学講座)の初代の担当教授に就任されたのち、大正15年3月から昭和4年9月までの3年6ヶ月間、九州帝国大学第3代総長を務められた方です。退官後は、昭和4年11月から4年半、同志社大学総長を務められ、昭和9年3月に病没されています。去る5月15日、そのデスマスク(写真)が、独立行政法人農業環境技術研究所から九州大学へ移管されました。関係者間の連絡係を務めた者として、その経緯を御紹介いたします。

 デスマスクは、御遺族の依頼により芸術院会員松田尚之氏によって作成された二つのうちの一つ、セッコウ製ブロンズ加工のもので、昭和60年に御遺族bが農業環境技術研究所に寄贈され、保管されていたものです。もう一つは作成直後に同志社大学に寄贈され今も保管されております。

 農業環境技術研究所への寄贈は当時東京大学農学部教授であった熊沢喜久雄先生による「大工原銀太郎博士と酸性土壌の研究」という論文が契機となったもので、大工原先生がその研究を行われた農事試験場の後身である同研究所がその保管場所の一つとして適当と御遺族が判断されたことによります。しかし、独立行政法人化にともない、将来は同研究所の性格変更もあり得ないことではないことなどを懸念した関係者の御尽力によりこのたびの九州大学への移管となったもので、その経緯のあらましは次のとおりです。

 まず、上記論文の著者である熊沢喜久雄先生と論文掲載誌発行所の肥料科学研究所理事である伊東正夫氏によって御遺族及び農業環境技術研究所の御意向の確認が行われました。その後本年2月、熊沢先生から九州大学名誉教授山田芳雄先生を通じ、農学研究院に対してデスマスク受け入れについての打診がありました。農学研究院長坂井克己教授は史料室に相談し、受け入れの回答を得、4月に農業環境技術研究所理事長あて移管願を発送しました。そして5月15日、同研究所理事長室において、関連研究所理事長、土壌肥料部長などの出席のもとでの移管式の後、いったん農学研究院に運ばれ、5月17日、史料室へ納められました。

 九州大学75年史によりますと、大工原先生は、大正14年10月に制定された「総長候補者選挙内規」にしたがって教授の互選によって選出された最初の総長です。一方で大工原先生の在任期間は大学にとって多難な時期であったようです。大正14年3月に成立した治安維持法が翌15年の京都学連事件に適用されております。また昭和3年には共産党弾圧の3.15事件があり九州帝国大学ではこれに関連して法文学部の3教授と1助手が辞職し、学生7名が放学処分されています。直接には何も語らないデスマスクも、これらの出来事を記録した文書類と共にあることにより、九州大学や日本の過去そして将来に思いを巡らすものにとっての雄弁な史料となりうるものと思えます。

 最後に、土壌学研究者として触れておきたいことがあります。それは、大工原先生は、酸性土壌における酸性及び植物生育阻害の原因物質が、土壌に保持されたアルミニウムイオンであること、そのアルミニウムイオンはカリウムイオンなどと陽イオン交換しうる形で保持されていることを世界で初めて発見した研究者であることです。この研究成果の主要部は明治43年(1910)に農学会会報及び農事試験場報告に発表されております。大工原先生はこの発見に基づき、塩化カリウム抽出による土壌酸度定量法を開発され、日本の畑土壌の改良に大きな貢献をされておりますし、この方法は、若干の改訂ののち、土壌酸度定量のための事実上の国際標準となっています。この研究は九州帝国大学在任中に行われたものではありませんが、その一端は次の教授となった川村一水先生に引き継がれ、その後土壌学研究室における土壌鉱物の構造化学及び界面化学へと発展しました。デスマスクが九州大学へ移管されたことは、土壌学研究者としても感慨深いものがあります。

 なお、熊沢先生から寄贈された、「大工原銀太郎博士と酸性土壌の研究」を掲載した「肥料科学」第5号(昭和57年)、筆者が前農学部長の山崎信行先生からお預かりしていた「農学博士大工原先生論文集」(昭和6年)もデスマスクとともに史料室へ納められました。デスマスク移管の経緯は農業環境技術研究所のホームページ(http://ss.niaes.affrc.go.jp)の「情報:農業と環境」の欄にも掲載されています。

(わだ しんいちろう 植物生産科学)

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