インタビュー
◎シリーズ九大人
Robert Huang
President & CEO SYNNEX Corporation
ロバート・ファン さん
一九六八年工学部電子工学科卒

 九州大学には昔から、海外からの留学生も数多く学んできました。今回インタビューするロバート・ファン氏もその一人。台湾出身で16歳のとき家族で来日。九州大学で電子工学を学んだ後に渡米し、ロチェスター大学、マサチューセッツ工科大学などで研鑚を積み、自ら起業した「SYNNEX」は、今や年商5千億円に達し、アメリカで株式公開も果たすなど、北米でも有数のコンピューター関連企業グループに成長しています。九大時代にはアイスホッケー部を創設。今回はその40周年記念行事に出席するために、多忙なスケジュールの合い間を縫って来福されました。


アイスホッケーに熱中して得た大きな成果、
身体が鍛えられたことと「チームワーク」が、
後に起業したりしていく上でも非常に役立ちました。

Q…
 お仕事でお忙しい毎日と存じますが、久しぶりの福岡はいかがですか。

ファン…
 そうですね。かつての学友や後輩たちともたくさん会えて、すっかり学生気分に戻ることができました。私たちが創設したアイスホッケー部が健在で、とくに今年度の七大戦(旧帝大の対抗戦)では北海道大、東北大についで第三位というすばらしい成績を収めていたのに感激しました。

Q…
 ファンさんは、本名を黄徳慈(ファン・ドゥ・ツー)さんとおっしゃるとか。九大時代はそのお名前で学ばれたわけですね。

ファン…
 そうです。私は台湾出身ですが、父の仕事の関係で十六歳のときに一家で大阪に移り住みました。実は父も、戦前にこの九州大学で学んだのですよ。といっても、学生の頃に仕事を始めたのでちゃんと卒業していない(笑)。父は台湾で、今の日本の「日清食品」の安藤百福会長と同郷でしてね、とても交友が深かったようです。それで、安藤氏が日清食品で大成功を収められ、そのカップめんの容器の開発を、日本に来た父が手がけていたわけです。

 私も高校、大学時代は本名のままでしたが、卒業後にアメリカに渡ってから、向こうで学業や仕事をする上ではアメリカの「クリスチャンネーム」がないとみんなが呼びにくいため、ロバートと名乗ったのです。

Q…
 ご両親は日本で亡くなられたと伺いましたが、ファンさんにとって”母国“というとどこを連想されますか。

ファン…
 今それがジレンマでしてね。生まれた台湾、両親が骨を埋めた日本、そして私自身はもう三十年以上アメリカに住んでいる。とくに今年はオリンピックの年でしょう。どこを応援するかが難しいのです(笑)。もっともこの問題は、母国を離れて世界各地で暮らすことの多い台湾人にとっての宿命という気もしますね。

 私自身の場合でいうと、三十数年間アメリカに住んでいても、精神的な拠りどころや感性の面では、やはり東洋的なものが基本になっていると感じます。とくに私にとって、日本という国は十六歳から二十三歳までの一番多感な時期を過ごしたわけですから、大きなウエイトを占めていますね。

オリンピックでどこを応援するかが一番難しい(笑)。
この問題は台湾人にとっての宿命という気もします。

Q…
 九大時代にアイスホッケー部を創設されたお話を伺いたいのですが。

▲九大アイスホッケー部創立40周年記念パーティーにて
ファン…
 その頃、天神に屋内スケート場がありまして、女性もたくさん来ていましたし、足繁く通っているうちに、九州大学でスケートをやるということが”クール“と感じられて、友人たちとスケート同好会を結成したのが始まりで、そのうちにアイスホッケーをやろうじゃないかということになったんです。でも、靴やスティック代などにお金がかかるんですね。当時、九大の田島寮費が一ヶ月数百円の時代に、スティック一本で一八〇〇円もして、それを全て部費で賄わなければならなかったものですから、大濠のビルの清掃に部員を派遣したり、スケート場の氷上員をしたり、ダンスパーティを企画したりして資金稼ぎをしたものです。元オリンピック選手という王子製紙の部長さんを口説いてコーチしてもらう段取りをつけたりもしました。その辺の交渉や企画には、何しろ大阪で「商売人の根性」を植え付けられていましたから(笑)、それがずいぶん役立ったと思います。

Q…
 そもそも、大阪の高校から九州大学への進学を決められたのはどういう理由からでしょうか?

ファン…
 一番は、やはり父が一度は学んだ福岡という土地への憧れがありました。台湾から大阪へは船で行きましたし、当時の日本は「造船業」華やかなりし頃で、最初は造船関連の学部がある九大へと思ったんです。しかしアメリカにいた兄から「これからの花形は電子だぞ」と言われまして、最終的に九大工学部の電子工学科に決めました。一九六〇年代にすでに「将来のビジネスは電子部門だ」と見通した兄の言葉は、当時としてはかなり先見的だったと思います。学生時代後半には、九大にも富士通のコンピューターが導入されて、実際に私も経験し、後でアメリカに留学してコンピューターのフィールドに入っていくわけですが、社会全体がコンピューターや半導体といった分野に大きなポテンシャルがあるとの認識を持つようになったのは、七十年代初め頃からではなかったでしょうか。

 九大時代は、勉強はそれほど熱心じゃなかったのですが(笑)、アイスホッケーに熱中したことで二つ大きな成果があったと思います。一つは身体が鍛えられたこと。もう一つは「チームワーク」ですね。先輩はいない訳ですから、チームリーダーとして皆と一緒に部を創ったり発展させようと努力したことが、自信となり、後に起業したりしていく上でも非常に役立ちました。

Q…
 九大卒業後、いよいよアメリカに渡られますね。

ファン…
 ロチェスター大学というカナダ国境に近い都市の大学に留学して、そこで電子工学を学び、七一年の卒業後はロサンゼルスにあるソフトウェアの会社に就職しました。その次に半導体機器を作る会社に移ったのですが、そこが日本に半導体のテスターを大量に売っていましてね。その会社に入って「二度目の来日」をするわけです。七四年から七七年にかけての三年間、これは私の人生においても最もすばらしい時期でした。九大にいた頃はまだ社会のこともビジネスのことも漠然としかわからなかったのが、今度はフィールドエンジニアとして第一線で仕事をし、人やモノやお金を動かしていくわけですから。松下や東芝、富士通、NECなど日本のトップ企業を回って、いろんな勉強をさせてもらいました。まさに、寝る間も惜しんで必死で働いたという感じです。

 あの頃ちょうど、日本でも半導体を立ち上げた時期で、通産省から各企業にいろんな補助金が出たりもしたので、それらの企業が私の会社のソフトやハードを購入したわけです。後半は、日本だけでなく東南アジア全体の責任者にもなったので、ビジネスマンとしても大きな経験を積むことができました。仕事のかたわら東京でビジネススクールにも通ったのですが、アメリカに帰ってからもやはり正式なビジネスの勉強が必要だと感じて、MITに入り、MBAを取得しました。

何かを率先してやるにはリスクもありますが、
あえてそれにチャレンジする
勇気と知性を持ってほしい。

Q…
 まさに二十代から三十代初めにかけて、怒涛のごとく仕事をなさって、同時に勉強もして、ビジネスマン・エンジニア・企業家としての基礎を築かれたという感じですね。

ファン…
 そうかもしれません。やはり吸収力の大きい年代に、思う存分自分を鍛えることは必要だと思います。

 MIT卒業後は、シリコーンバーレーにあるAMD(Advanced Micro Devices)という半導体の会社に入って、インターナショナル・セールス・マネージャーとして仕事をしていたのですが、当時のアメリカにはまだ東洋人に対する差別意識みたいなものもあり、また自分なりの会社を作りたいという思いも強かったんですね。それで、一九八〇年に独立し、COMPAC(後のSYNNEX)という会社を立ち上げたわけです。

 AMDから、台湾とかオーストラリアとかシンガポール、南アメリカ、日本などの顧客を譲り受けたこともあって、非常に順調な独立のスタートを切れたことは幸運でした。独立後一〜二年後にはちょうどIBMからもPC(パソコン)が出てきたし、動くたびにいろいろなビジネスチャンスに巡りあってまた仕事が増えていく…その連続でした。そうすると成長率増加が資本より大きくなってしまうんですね。


▲Opening Bell Ringing.
2003年、SYNNEXはニューヨーク証券取引所上場に成功した。
 そこで八七年に一度会社を売却し、九二年にあらためてその買収会社や台湾のMITAC社からの資金導入を受けて独立して、今の「SYNNEX」をスタートさせたということです。以前の会社はPCの卸売のみでしたが、MITACは製造部門を持っていましたから、その技術や顧客も同時に入手できました。

 九九年になると、三〇〇〇億円を売り上げ、アメリカでの上場を考えたのですが、バブルがはじけたりイラク戦争勃発などでいったん保留して、二〇〇三年にあらためて上場にチャレンジしたのです。ちょうどエンロンなどのスキャンダルが問題になっていた時期で、企業に対する投資家の信頼も薄らいでいたのですが、私の会社はIT企業としては六十五クオーター(四半期)連続黒字というスバ抜けた実績もあり、ユニークな会社ということもあって、NYSE(ニューヨーク証券取引所)上場に成功しました。

Q…
 今お話を伺っていると、コンピューターというものが社会に登場し、猛烈な勢いで需要や役割が浸透し、拡大してきた経緯が、そのままファンさんのお仕事の成長とリンクしてきたようですね。

ファン…
 まさにそのとおりですね。SYNNEXの企業活動は大きく二つあります。一つはハードウェアの製造、もう一つはハードとソフトウェア両方の情報機器の物流ですね。顧客のニーズに応じたシステムデザインから配送、返品処理まで、一番ローコストで効率よく進める一貫した「サプライチェーン」で対応し、全体を管理するという独自のビジネスモデルを確立しています。顧客数は、北米を中心に日本、中国、イギリスなどでおよそ三万〜四万社ほど。本社はカリフォルニアのフリーモントにありますが、日本やカナダ、メキシコ、イギリスなどにも現地法人を置いており、社員は二五〇〇人ほどになります。

自分が学んだ事が
社会でどう活用できるかを
常に考えていってほしい。

Q…
 二十代から精力的に仕事に打ち込み、あくなき可能性を追及してこられたファンさんならではのご活躍だと思いますが、そのファンさんから見て、今日本が進めようとしている「産学連携」をどう思われますか?

ファン…
 アメリカでは早くから進んでいましたが、当然の動きだと思います。ある一つのテーマを追うにしても、長期的な展望に立てば大学における地道な研究の要素が必要ですが、その実用化も複眼的に見ていかなくてはなりません。

 学生たちも、自分が学んだ事が社会でどう活用できるかを常に考えていってほしいですね。アメリカでは、学んだことを実社会で役に立てることを意識させる教育がシステムとして構築されています。学校での教え方も、たとえば小中高では数学でも物理でも、教科書だけでなく”日常の中で感じさせる“教育を行っている。大学に入ると二年くらいから、企業でのインターンシップで仕事を実体験させています。それと、アメリカの教育ではディスカッションの場がとても多いですね。子ども自身に「自分は何がわからないのか」を考えさせて、そこからものを学ぼうとさせる。そういう姿勢が見られます。私もリタイアしたら、大学に行ってまた勉強したいと思っています。

Q…
 日本でも、小さい頃からの教育システムとしても、「学業と社会」とのリンケージをもっと積極的に進める必要があるということですね。
 最後に九大の後輩たちへのメッセージをお願いします。

ファン…
 私は日本の学生に望みたい点が二つあるんです。まず、世界の中で自由にコミュニケートし、ネゴシエートしていけるように、英語に熟達すること。大人になってからではなかなか難しいんですよ。皆さん分かっておられることでしょうが、今の英語教育には課題があると思いますね。

 そして二つ目は、リーダーシップを取るのを恐れるなということです。日本人はどうしても「出る杭は打たれる」(笑)になりがちで、言いたいことを言わないで済ませる傾向がありますからね。何かを率先してやるにはリスクもありますが、あえてそれにチャレンジする勇気と知性を持ってほしい。日本が、そして日本人がこれから世界でどんなポジションを取れるかは、それにかかってくると思います。

 六八年に渡米したとき、家族とはこれで別れだと思ったものですが、数年後に再来日した後は日米間を行ったり来たりでした。現在ではまさに世界は一つで、将来はもっと狭くなるでしょう。どこの国の人にも世界を舞台に活躍するチャンスがあります。もっとオープンでグローバルな意識を持ち、今という時間の大切さや輝きを感じて、努力してほしいと思います。

Q…
 貴重なご指摘をほんとうにありがとうございました。これからもますますのご活躍をお祈りいたします。

(インタビューは、二〇〇四年七月二十六日(月)、事務局貴賓室で行われました。)

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