インタビュー
◎シリーズ九大人
全日本空輸株式会社最高顧問近藤秋男 さん
昭和二十九年法学部卒
 近藤さんは全日空(ANA)の社長を昭和62年から平成5年まで務められ、現在同社の最高顧問です。また、法学部東京同窓会の会長として、東京の九大人をまとめていらっしゃいます。九大生時代は、東映株式会社の会長である高岩淡(たかいわ たん 昭和29年経済学部卒)氏とともに、受験産業のはしりと言える「学窓会」を運営し、多くの学生の生活を助けたという伝説の人物でもあります。
 平成16年3月25日(木)、本学学士学位記授与式に来賓として来られた際に、念願のインタビューが実現しました。

全日空で何度も労使交渉を行いましたが、
それは九大生時代にすでに経験済みだったわけです。
戦後の学制改革で苦労する

Q:
学位記授与式でのご挨拶ありがとうございました。その中で、「新制大学第一期生として苦労した」とおっしゃっていましたが、どのような状況だったのでしょうか。

近藤:
 これはなかなか複雑で、同じ学年の人にしか理解してもらえないのです。
 私は大分県の竹田の出身で、旧制竹田中学校から試験に合格して旧制佐賀高校に入りました。ところが学制が変って、本来三年間の旧制高校は一年で修了。今度は新制大学の入学試験を受けなければならなくなりました。昭和二十四年のことです。ところが、旧制高校の入試に失敗した人たちは、本来浪人となるべきところ、昭和二十三年に発足した新制高校の三年生になっていた。つまり、旧制高校に合格して一年間青春を謳歌していた私たちと、旧制高校入試に失敗して新制高校の三年生になって懸命に試験勉強していた彼等とが、今度は新制大学の受験という同一線上に立たされた訳です。こんな具合で戦後の混乱に学制改革が加わって大変苦労しましたが、今は、たった一年間でも旧制高校の生活を味わうことができてよかったと思っています。

「学窓会」を運営して労使交渉を経験する

Q:
そして昭和二十四年に新制九州大学一期生として法学部へ入学されました。以前、谷福丸さん(たに ふくまる 前衆議院事務総長 昭和三十八年法学部卒)にお話をうかがったとき、「高岩淡さん(たかいわ たん 東映(株)会長 昭和二十九年経済学部卒)や近藤秋男さんが始められた学窓会というものがあり、私も委員になって入学試験の模擬試験などを行い、そのおかげで大学を無事卒業できました」とおっしゃっていました。「学窓会」とは、どんな組織だったのですか。

近藤:
 「学窓会」の創設者は高岩淡さんです。東京大学、京都大学と九州大学の学生が協力して、大学入試の模擬試験を運営したのです。各学科ごとの試験問題を、大学の助手や研究生たちと作り、監修を教授にお願いしました。私の時は京都大学に問題案を持ち寄って、どれがいいか会議を開きました。最終的に問題が決まると担当大学がそれを持ち帰り、刑務所に印刷を依頼します。刷り上がった問題は大学の金庫に保管し、試験の二日前に試験場となるそれぞれの大学に到着するように送ります。私たちは、送られてきた問題を学生部の金庫に保管させてもらいました。問題は試験当日に封を切って試験を実施し、答案はまた助手や研究生に採点をしてもらう。試験結果は朝日、毎日、読売各紙が掲載してくれました。それに私たちが、「一番から何番までは○○大学に合格できる」とか「○番以下の者はいま一段の努力が必要」などとコメントを付けていました。記者たちもよく来ていて親しくなっていました。ニュースもあまりなかったのでしょうね。

九大事務局内の学生部で近藤(左)・高岩両氏(昭和28年)
Q:
随分本格的だったのですね。儲かりましたか?

近藤:
 結構儲かったのです。年に二回くらいの実施で運営ができていました。そのうち通信添削も始めました。これも助手や研究生に問題作成や採点をお願いし、彼等はこの建物(九州大学本部事務局)の二階の大きな会議室に籠もって採点していました。一階の玄関を入って右手に学生部厚生課があって、その奥の倉庫を学窓会事務室として使わせてもらっており、当時は入り浸っていました。
 ストライキが起こりましてね。助手や研究生が賃上げを要求したのです。そのときは、年上の彼等との団体交渉に、学生の私たちが経営者側として臨みました。全日空で何度も労使交渉を行いましたが、それは九大生時代にすでに体験済みだったわけです(笑)。
 学窓会とは別に、「アルバイト組合委員」というのもやっていて、事務局には本当に毎日出勤していました。当時の厚生課には大変世話になりました。


九州を飛び出し、日本や世界で
活躍する気概を持っていただきたい。
就職試験用に撮影したもの(昭和28年)
Q:
アルバイト組合とはどんな組織なのですか。

近藤:
 これは「学窓会」とは別のものです。あちこちからの求人申し込みを受け付け、アルバイトを希望する学生に振り分けるのが仕事です。事務局の玄関に、歳末のくじ引きなどで使われる抽選器を置いて、ガラガラ回して抽選していました。当時の学生は仕送りも当てにならず皆金がなくて困っていましたから「繁盛」していましたよ。
 ある時、日本緑化運動なるところからアルバイト依頼があって、夏休みでしたし晴耕雨読ができるような気がして、じゃ行ってみるかと何人かで参加しました。ところが仕事は板付飛行場(今の福岡空港)に敷く砂利取りで、作業員宿舎に入れられた。何日かたったら雨が降り出して仕事ができず、飯は食べさせてもらえましたが給料が出なくなりました。そんな話は聞いていないということで、やめて帰ると申し出て大変もめたこともありました。

Q:
それはおいくつくらいの時でしょうか。今の学生と比べて随分大人でいらっしゃったように感じますが。

近藤:
 二十二、三才です。今になって思えば、当時の学生連中は大人だったという気はします。今日、卒業する皆さんを見て、自分たちもあんなにかわいらしかったかな、と思いましたよ。それは時代のせいもあったのです。当時は学生と言ってもいろいろな経歴の人がいました。海兵・陸士出身者や、浪人経験者、落第経験者など。年のいった人も結構多く、学生は今と比べてもうちょっと大人っぽかった。あの時代の大学特有の雰囲気がありました。


昭和27年頃の箱崎キャンパス
新しい業界で働く

Q:
そのような大学生活を経て就職されたのが日本ヘリコプター輸送という会社ですが、どのような理由でそこに決められたのでしょうか。

近藤:
 戦後しばらく航空事業は禁止で、再開されたのは昭和二十七年になってからです。国策会社として日本航空がスタートしたのですが、実際の運航はノース・ウェスト航空でした。同時に東京と大阪に民間会社ができて、東京が日本ヘリコプター輸送、大阪が極東航空です。戦時中の航空輸送は軍の補助で行われていましたので、純民間は戦後になって初めてということで新聞で話題になっていました。それで面白そうだと興味がわいたのだと思います。
 当時まだヘリコプターは珍しく、輸送に使えるのではないかという発想だったのですが、やはり飛行機でなければ難しいということになり、後に極東航空との吸収合併を経て全日本空輸株式会社という全国規模の航空会社になりました。私たちが付けているANAのバッジの絵柄が、レオナルド・ダ・ビンチの描いた今のヘリコプターの原型とも言える飛行物体をもとにしているのはそのためです。同級生たちからはヘリコプター輸送とは変な会社に入ったなとからかわれましたが。

Q:
初めて開かれた分野のお仕事ということで、ご苦労もあったのではないでしょうか。

近藤:
 どの仕事も、誰もそれまで経験したことのない新しいことばかりです。管轄の役所である運輸省へ提出する書類作りも、誰もやったことがないということで、新入社員である私が運輸省へ行って作り方を聞いて作成しました。社内の誰も教えてくれない、何でも初めてだから知っている者がいない、自分から仕事をしないと何も進まないという状況です。しかしそれは結果としてよかったと思っています。自分で苦労した分、仕事のやり方がしっかり身につきました。
 仕事を一生懸命やっていると、目的が見えなくなることがあります。目的と手段の区別がつかなくなるのです。仕事は、何のためにやるのかはっきりつかんでから取りかかる必要があります。一段二段上に立って、高いところから見渡さないと物事は見えてこないし、そうすることで異った答えを見つけることができる。これは何事においても大切なことです。

先輩として経営協議会委員として

Q:
平成十六年四月一日に国立大学法人九州大学が誕生しました。大学の経営面を協議する機関として「経営協議会」が設けられ、委員の半分以上は学外有識者とされています。その委員に就任される抱負をお聞かせください。

近藤:
 国立大学がこれからどこへ行くのか。母校の経営協議会委員就任ということで、私なりに勉強してみましたが、的確には掴みきれないところもあります。しかしそれは別にして、この大きな変化に対応していくために一つ言えることは、九州大学はもうちょっと自分を売り込んでいかないといけないということです。そもそも東京から離れた九州にあるということで損をしている面がある。新聞も九州版にはよく出ているようですが、全国版ではほとんど九州大学の文字を見ることがない。どんなに立派なことをやっていても人の目に触れないと、存在が重く見られないということがあります。いかにして全国版のマスコミで扱って貰うかはこれからの大きな課題ではないでしょうか。このことは経営協議会でも申し上げようと思っています。
 また、私は法学部の東京同窓会長を務めていますが、かねてから学部毎の同窓会では活動や影響力に限界があり全学同窓会でやらないといけないと感じていました。幸い大学も同様な考えであったようで、五月には全学的な東京同窓会が設立されます。今年卒業された皆さんを含めて、年齢や肩書きに関係なく、東京にいらっしゃる九大OBの皆さんの交流がもっと大きく広がることを望んでいます。

Q:
本日の卒業式で、「良い意味のエリート意識を持って、目標を高く掲げよ」「人間性を高め判断力を磨け」「全てに前向きな発想で事に当たれ」の三つをはなむけの言葉とされました。後輩である九大生たちに、その他にメッセージを頂戴できますか。

近藤:
 今、若い人たちの間に、「九州でいいんだ」という風潮があるように聞きます。後輩の諸君に特に申し上げたいのは、ぜひ、九州を飛び出して日本、そして世界を視野に入れて活躍する気概を持っていただきたいということです。そうでなければ、九州大学は九州の九大に成り下がってしまいますよ。

(平成十六年三月二十五日(木) 事務局貴賓室にて)

前のページ ページTOPへ 次のページ
インデックスへ