インタビュー
◎シリーズ九大人
Kouichi Ikeda
【アサヒビール(株)】代表取締役社長兼COO(最高執行責任者)
池田 弘一
池田弘一(いけだ・こういち)
1940年生まれ。福岡県筑紫野市出身。63年九州大学経済学部卒業。同年アサヒビール株式会社入社。九州地区本部長や酒類事業本部長などを経て、02年より代表取締役社長兼COO。



「自分の可能性を信じてあきらめるな」

今年3月、九州大学の学位記授与式に来賓として出席した池田弘一氏は卒業生を前に熱く語りました。 池田氏はビール業界で快進撃を続けるアサヒビールの代表取締役社長兼COO(最高執行責任者)。 そして、九州大学から巣立った卒業生の一人でもあります。低価格の発泡酒や第三のビールが台頭する厳しい 市場競争の中、池田氏は乗り越えるべき壁を常に高く設定し、業界トップ企業のかじ取りを担ってきました。 九州大学がアジアの拠点大学として羽ばたこうとしている今、学生が自らの真価を発揮し、 世界へ飛躍するにはどのような視点が必要なのでしょうか。池田氏に尋ねました。

平成16年度学位記授与式で来賓祝辞を述べる池田社長

ビールのおいしさに感動→入社

まず最初に、九州大学を目指したきっかけについてお聞かせください

池田 私は福岡県立福岡高校の出身なのですが、福高は九大に進学する人が多いんです。同級生にも九大志望者が多く、私は当時二日市に住んでいて近いこともありましたから、九大に進学することはごく自然の流れでした。

経済学部を選んだ理由は。

池田 どうも性格的に法学部や文学部は合わないな、ということで、消去法的に経済学部を選びました。あまりまじめに勉強する学生ではありませんでしたから。当時の経済学部は卒論もなかったので、楽でよさそうだなと。

勉強以外に熱心に取り組んだことはありましたか。

池田 われわれは六十年安保闘争の世代ですから、まさにデモの時代だったんですよ。中洲の真ん中でデモ行進をしたり、当時の福岡市役所や福岡県庁で廊下をデモすることが許されていましたから、今思えば、社会の許容範囲も広かったんでしょうね。

キャンパスを歩かれるのは久しぶりですか。

池田 平成七年からアサヒビールの九州地区本部長として二年間赴任したころ、キャンパスを散策しました。街並みがかなり変わりましたね。われわれの時代には市内電車で通っていたイメージが強いですから、国道3号線から車で入ってきてもピンとこないんです。

アサヒビールに入社した理由は何でしょうか。

池田 たわいもないことなんです。さっき言ったように、僕らは六十年安保の世代でしょ。僕はあまり積極的に参加する方じゃなかったんですが、先輩からちょくちょく動員をかけられるわけですよ。こっちが「タダじゃ出ない」と言うと、「じゃあビールを飲ませてやるから」と。当時天神にあったアサヒ会館の地下や、中洲の日活ホテルのビアホールに連れて行ってもらいました。そのとき「ビールっておいしいな」と思って、それならいっそビール会社に入ってしまえば、思う存分ビールが飲めるんじゃないかと思ったんですよ。

福岡で勤務されたこともあるとか。

池田 九州が私の社員生活の半分を占めてるんですよ。昭和三十八年に入社して五十二年まで十四年間、九州の営業を担当しました。それからずっと東京を中心とした関東でしたが、平成七年から二年間は再び九州に帰ってきました。通算十六年間、入社してからの約半分を九州で過ごしたことになります。



われわれは会社全体を再生しようと考えました。最も大きかったのはビールの中身そのものを変えたことでした。

アサヒビール再生のプロジェクトX

営業畑一筋ですが、その中での苦労話などお聞かせください。

池田 アサヒビールという会社が今あること自体、映画以上のドラマがあると思うんです。それほどの紆余(うよ)曲折がありましたから。
 われわれが入社したころはアサヒとキリン、サッポロのいわゆる三社鼎立(て いりつ)時代。三十八年にサントリーがビールに参入してきましたが、各社間の優劣はそれほど明らかではなかったんです。
 それが五十年代に入って急激にアサヒビールのシェアが落ち込み、六十年代はどん底。シェアは9.6%にまで落ち込みました。10%を切るということは非常に深刻な状況で、周りから「がけっぷちだ、がけっぷちだ」とさんざん言われました。しかし今考えると、かかとは既にがけの外にはみ出していたんですね。
 その危機的状況の中で、何とか会社を立て直したいという社員の熱い思いがあって、経営陣の強いリーダーシップのもと、転落したアサヒビールの再生をということになりました。
 当時、企業の特性を内部的に再構築するというコーポレート・アイデンティティーいわゆるCIというものがはやっていて、アサヒビールもそのCIという手法を使って再建に着手したんです。
 CIというのは、ロゴマークを変更するだとかビジュアルアイデンティティーを変えるという意味合いが強かったんですが、われわれは会社全体を再生しようと考えました。最も大きかったのはビールの中身そのものを変えたことで、これはある意味、従来の商品を否定するということでした。しかし、経営面でとことんまで追い込まれていたからこそ、このような決断ができたのでしょう。
 味を変えるにあたっては、まず、お客さまが望んでいるビールは何なのか考えました。今ならお客さまのニーズを考えることは当然のことですよね。ところがそれまでの日本の会社というのはビール会社に限らず、技術者や研究者が作ったものがベストだと考えられていたんですね。
 しかし、初めて消費者調査を実施してみると、お客さまの望むビールは従来のアサヒビールでもないし、当時一番売れていたキリンビールでもないようだということが読み取れました。その後求められている味を追求して、昭和六十一年に「コクがあるのにキレがある」というアサヒ生ビール第一号が誕生したのです。
 これがそこそこ売れたんですが、当時の商品開発チームがビールの可能性をさらに追求し、今のスーパードライのようなイメージの味をつくり出したいと提案してきました。しかし、会社の体力を考えると、新しいものを出すことについては当時の経営陣も判断に困ったのでしょう。最初はごく小規模の販売計画でスタートしました。これがとてもお客さまの反応がよく、記録的な売り上げとなって会社の礎を築くこととなりました。会社の歴史そのものが、わずか二、三十年の間に二転三転しましたから、やってみないと本当に分からないことってありますよね。



目標は高めに見ないと全体が見えないし、自分が新しいことをやる意欲もわいてこない。

学位記授与式では、「自分の可能性を信じてあきらめずにやれ」とおっしゃっていました。

池田 これはまさに私の体験で得たことを話してるんです。アサヒビール自体、六十年のあのときにあきらめていたら、今日はなかったですからね。
 実を言うと、私自身の社内評価もそんなに高かったわけではありません。若いときには出向も経験しましたし、支社長から支店長になったこともありました。どちらも権限としては同じなんですが、支社長から支店長というと、どうしても肩書きが下がる気がしましてね。しかし、そのころの経験が逆に私の最大のキャリアになっていることも事実です。
 会社の業績が上がると人も増えてきますので、さっきの話ではないですけれど、本人の希望しない評価や処遇、配置替えもあるでしょう。その不満でつぶれていく社員も多いわけですよ。しかし、人が人を評価しているわけですから、そういうことはあって当然のことなんです。それなのに、それを致命傷として挫折していくのは非常にもったいない。自分を裏切っていることだと思うんです。
 だから社員にも、現役でいる間はもっと頑張らなくちゃ自分で自分を裏切ることになるよ、と言うんです。そうでないと、自分で自分を不幸にしてしまう。他に評価を求めず、自分はもっとやれると信じて頑張らないといけないと思うんですよね。

目標は高めに、自分を信じてやれ

池田社長の話を聞いていると元気がわいてくるような気がします。社内ではどのようなお話をされるのでしょうか。

池田 先ほど話したことと同じなんです。それを社内での具体例に沿ってお話ししましょう。
 われわれはここ三年ぐらいでビール以外のワインやウイスキー、焼酎などの事業を拡大してきました。残念ながらビールほどの売り上げはなく、いずれも二番手三番手。ある意味じゃマイナーなわけです。
 そこで予算を一割増しにしたとしても、一割増しの努力をしていたのでは売り上げは伸びてこない。通り一辺の目標だと従来やってきたことにちょっと上乗せされるだけです。新しいビジネスチャンスが生まれるわけがありません。
 例えば十一月第三木曜日に解禁されるボージョレ・ヌーヴォですが、私たちは五年ほど前までたった二万箱程度を輸入できるかどうかでした。それを三年前から二倍、三倍売ろうという運動を始めたら、輸入量は一挙に十二万箱へ、六倍近くにまで増えて、昨年は売り上げ二位になりました。
 これは今まで取り扱っていなかったお店に新たにお願いしたり、それまで売ってもらっていたお店にも思い切った売り上げ目標を提示したりとか、そういう新しい動きや発想が生まれたからです。目標は高めに見ないと全体が見えないし、自分が新しいことをやる意欲もわいてこない。だから社内でも、目標を高めに設定して自分を信じてやれ、ということを言っています。



九州にある大学なのだから、まずはアジアの九大と呼ばれるようにならないといけない。

アジアの九大、そして世界の九大に

視点を大学に移して、九大ブランドを高めていくには今後どのようなことが必要でしょうか。

池田 さっきもお話ししたように、私は九州と関東で仕事をしています。九州で九大というとメジャーですが、東京に行くと「九大ってどこ?」という感じですよね。私は九大の良さを知っているだけに、そういうことを聞くと非常に歯がゆい。九大をメジャーにし、ブランドとして高めていくためにも、九大の卒業生にはあちこちで、特に中央でもっと活躍してほしいという気持ちがあります。そして日本の九大と言われるようにしていきたいんです。
 私は梶山千里総長にもお話ししましたが、九州にある大学なのだから、まずはアジアの九大と呼ばれるようにならないといけない。九州に来ると、九州経済はアジア経済に半分くらい影響されていることを実感します。平成七年に私が九州に赴任してきたときも、日本国中が「バブルがはじけた」と言っていましたが、九州だけはアジアの景気を受けて元気なものでした。
 キャナルシティ博多ができたのもそのころだったでしょう。あのころ福岡の景気が良かったのは、アジアの景気が良かったからにほかならないんですよ。 まずはアジアの九大に、そして世界の九大へと躍進できるようつなげてほしい。

具体的にはどのようなことを実践していくべきでしょうか。

池田 問題は、大学が発する情報のコミュニケーション量だと思います。東京や大阪など、中央の大学が一の情報を出すならば、こちらは十出して初めて互角だと思うんです。同じようにやっていたんでは到底追いつけない。多様な内容の情報を、いろいろな人が感知しやすい形で発信していくべきですよ。
 もう一つは、元気な九州をどう演出するか。これが九大のパワーにもつながってくると思うんです。一時は九州も元気でしたが、最近はまた勢いをなくしている気がします。
 九大も法人化を一つの境目に、今後はもっと実学の世界と結び付いていかなければならないでしょう。そして、これを率先して実行に移す時にきていると思います。

最後に、九大の後輩たちにメッセージを。

池田 私は九州大学は素晴らしい大学だと思っています。学生の皆さんも九大での学生生活を楽しむと同時に、自信を持って九大卒だと言ってほしいと思います。そして、これからもさまざまな舞台で大いに活躍してもらいたいですね。




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