韓国の政党の一つである自由民主連合で総裁を務めた金鍾泌元国務総理が六月、福岡の地を訪れ、九州大学主催の講演会が開催されました。金氏は、日韓基本条約の締結のための交渉で大きな役割を果たしました。朴正煕(パク・チョンヒ)政権と金大中(キム・デジュン)政権においては日本の総理大臣にあたる国務総理を務め、金泳三(キム・ヨンサム)氏、金大中氏とともに韓国政治史上の” 三金時代“を築きました。
 最近の日韓関係は市民レベルの交流が進み、これまでにないほど友好ムードが高まっています。21世紀を迎えた私たちは新しい時代を築く課題を担います。二国間の歴史から何を継承し、どのように発展させていくべきか、九州大学名誉博士でもある金鍾泌氏に梶山総長が聞きました。



わんぱくで問題児だった少年時代
金 鍾泌 元大韓民国国務総理

梶山 非常にお忙しいところ九州大学の講演会に来ていただき、本当にありがとうございます。今回は一般の方のほかにも約五百人の高校生が来場し、金元国務総理のメッセージを心待ちにしています。

 若い人たちの参考になる話ができるかどうか心配ですが、せっかくのお招きですから、私のこれまでの経験を踏まえて話をしましょう。

梶山 一九九八年に九州大学にお見えになり、「韓日関係の過去と未来」と題して日本語でお話しされた講演会では、二千人にも上る教職員や一般の方々が深い感銘を受けたものでした。それ以後、本学は韓国との学術・文化交流拠点を目指す「韓国研究センター」を設立するなど、さまざまな取り組みを実践してきました。そういう意味では、本学は金元国務総理に韓国研究の基礎を築いていただいたといえるでしょう。
 今春本学に入学した約二千八百人の新入生のうち十四%に当たる三百八十三人が朝鮮語を履修しています。日韓両国の距離は年々近くなってきている状況です。
 まずお聞きしたいのが、金元国務総理の若い頃の思い出です。幼少時代をどのように過ごしておられたのか。また、政治家として国づくりを志されたきっかけをお聞かせください。

 私は子どもの頃、相当なわんぱくで、村中の問題児だったんですよ。例えば、新しい家が建つ所に十二、三人の仲間を引き連れて騒ぎ回った揚げ句、わざと柱を汚して帰るなど、悪いいたずらをたくさんしました。中学以降は級長として、まじめな生徒になりましたがね。

教師を目指す道から国づくりの道へ

梶山 子どもの頃はわんぱくなくらいが将来は大物になると言いますよ。そのわんぱくな少年が、政治に興味を持たれたきっかけは何だったのでしょうか。

 小さい頃からの目標は高等学校の先生になることでしたから、師範学校に進学しました。政治家になるなんて思ってもみないことでしたよ。
 ところが国は南北に分断され、師範学校を終えた後に入った士官学校を卒業した翌年、朝鮮戦争が勃発し、私も軍人として参戦したんです。士官学校で同級生だった者たちは、三割以上、小隊長や中隊長として死んでいきました。そして戦争が終わってみると、国中が焼け野原。食べるものはなく、米国の余剰農産物をねだりながら春先の収穫時期にこぎつけるというありさまでした。まさに極貧国でしたよ。
 これではたまらないと、一斉に立ち上がって国づくりを始めたのが一九六一年。五月に軍事革命を起こしたのです。軍隊を動員して政権を引き受けるうち、革命を起こした以上は自分たちの責任の下で徹底的に経済を再建し国を立て直すべきだと決意しました。そのような気持ちの変化があって、政治家になったんですね。
 その革命を契機として、韓国は今のような国となり、昨年は輸出額が二千五百億ドルを突破しました。車を作ってそれを乗り回す、そういう国になったのです。それはあの革命が始発点であり、転機であったと感じています。
 政治家になって四十三年。昨年引退しましたけど、すでに齢(よわい)八十ですから、これ以上政治をやりたくてももう駄目。若い人に託す時期に来ているのです。

梶山千里 九州大学総長
戦後賠償、日本への請求権交渉のヤマ場で

梶山 韓国において最も日本の事情に精通しておられて、愛情も注いでくださる―。私は金元国務総理に対して、そういうイメージを持っています。これまでに日韓関係の歪みを埋め、また絆を築いてこられた中で何か印象深い出来事などございましたらお話しいただけますか。

 一九五一年のサンフランシスコ講話条約により、日韓両国が会談という正式な場で話し合いを持って問題の解決にあたるという方向性が示されました。そして両国の代表たちはすぐに交渉を始めましたが、一九六一年までの十年間は何の成果も出せなかったんです。
 それは、日本も戦後復興の真っ最中だったことや、韓国も食べることに精一杯で必死に国づくりを進めていたという時代背景がありました。絶えず北朝鮮から脅威を受けてもいましたし。さまざまな問題を抱えていた中での会談でしたから、国交回復への歩みも遅かったのでしょう。
 中でも最大の鍵は請求権問題でした。韓国を三十六年間、植民地として支配していた日本に対し、韓国が償いをしてくれというのはれっきとした権利なんです。しかし、代表たちは十年間の話し合いの中で一度もその金額について触れたことはありませんでした。
 会談の場ではお互いに言葉尻を取り合い、言い争いの末、会談は中断されるという状況。正式には五回くらい話し合いの場が持たれたのですが、成果が出るはずもありませんでした。
 そこで朴正煕氏(当時の最高会議議長)が私に、「お前がやってみろ。革命もやってのけたんだから」と指示を与えたのです。私はその意気込みで日本側の当時の外相・大平正芳氏との会談に臨み、一九六二年十一月に「無償三億ドル・有償二億ドルの経済援助」という、いわゆる”金・大平メモ“をまとめ上げました。それは、三年後に締結された日韓条約への扉を押し開けた出来事といえるでしょう。

これから韓日両国は、よりよき友人、よりよき隣人、
そしてよりよきパートナーであらねばならない。

自分を形作ってきたもの、それは何か

梶山 その後も朴正煕政権、金大中政権の下で国務総理を務められました。国の大事を担う立場として大きな重圧があったと想像しますが、金元国務総理は何を基準に判断を下してこられたのかをぜひお聞きしたい。例えば、若い学生が自分の人生をなかなか決められないというのはよくあることです。人間が生きていく上で判断基準としての” バックボーン“は不可欠だと思うのですが、それは金元国務総理の場合どのようなものだったのでしょうか。

 私の場合は単純でした。豊かで、国民にあまり負担を強いない生活を保障すること。国がどう動けば皆がご飯を食べられて、民主的に国が営まれ、世界で尊重される価値ある国民として認められるのか。それらを将来にどうつなげていくのか。そういうことばかり考えて走り回っていました。

梶山 ご自身の中にある粘り強さとか相手のことを思いやる気持ちというのは、どのような成長過程で養ってこられたのでしょうか。

 私は自分の主張や立場、都合、利便性ばかりを表に出さず、相手のことを考えながら結論を導き出す教育を受けたのです。それがこれまでの力となり得たと思います。
 十代のころは偉人伝や伝記、歴史書を寝ないで読んだものですよ。昨日を知らずに、今立っている現在を正確に認識することはできません。昨日を鑑(かがみ)として、今日と比較しながら明日のことを考える。そういう視点が大事だと思います。

梶山 歴史だけではなくて、美しく素晴らしい文学作品を読んで、お互いの国のことを知る。そういうことを自分自身が動いて、やっていかないといけないですね。

 フランスの笑い話にこういうものがありました。若い頃は読書家だった家庭の主婦が、結婚してからはまったく本を読まなくなった。「なぜ読まないのか」と尋ねると、「だってテレビが読んでくれるもの」と。 しかし、人が見せたり読んでくれたりしたものは、自分の精神や知識の深部には刻み込まれません。自分の目や耳でたどることが大事だと思うのです。
 私は中学三年生のとき世界文学全集を読破しました。ずっと寄宿舎生活で、夜十時になると明かりが消えてしまうので、その後はナショナル電池を入れた懐中電灯をともして読んだものでした。ナショナル電池にはずいぶんお世話になりましたよ。

梶山 昔で言うところの「蛍の光、窓の雪」というところでしょうか。

 「蛍雪の功」とも言いますよね。
 しかし私が今心配しているのは、若い人たちが勉強、勉強といって、体を鍛えることをおろそかにしているということです。精神が鍛えられていない分、どうも意地や根性に欠けている気がします。 
 私は小学四年生のときから剣道を続けていて、土曜稽古や寒稽古、朝・夕稽古と、一日も休んだことがありません。六段の免許をいただいていますが、今でもどこも痛いところがありません。

梶山 「鉄は熱いうちに打て」という言葉がありますが、若いうちから心身ともに鍛えておくことが大切だということですね。

よりよき友人、隣人、パートナーとして

梶山 日本でも画一教育から個性重視の教育へと視点が移ったように、教育も社会の発展に伴って変わっていく部分があるのは事実です。しかし、最後までくじけない粘り強さや人を思いやるという気持ちの教育は、どこの国でも、いつの時代でも必要ですよね。
 日本と韓国は今、音楽やテレビ、映画、スポーツなどさまざまな面で交流が盛んになってきています。それと同時にお互いの国を知るチャンスもぐっと広がりました。だからこそ、私たちが今すべきことは、日韓両国の若者に歴史を共有してもらうことではないでしょうか。そうでなければ真にお互いを理解するチャンスを逃してしまうでしょう。

 日本と韓国の間には紆余(うよ)曲折や起伏がありました。しかし私たちはこれからもずっと仲良くしていかなければならない間柄にあります。生涯を通じて、よりよき友人、よりよき隣人、そしてよりよきパートナーとしてやっていけるよう、若い人たちがお互い真剣に考えながら、両国の明日を開いていけたら―。私はそう願ってやみません。

梶山 金元国務総理、今日はどうも貴重なお話をいただき、ありがとうございました。


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