兵庫県 城崎へツーリング
理系と文系の垣根を取り払い、いろいろなことに好奇心を持ち、どんどん雑学をやってほしい。

―今日は、伊都キャンパスで学生に講義をしてくださるということで、ありがとうございます。伊都キャンパスへ初めてお見えになったのではないかと思いますが、まずその感想からお聞かせください。
田崎 伊都キャンパスのすばらしさは話には聞いていましたが、百聞は一見にしかず。その広大なことに驚きました。創立百周年を目前にして新しいキャンパスを造って移転するというのは、素晴らしいタイミングではないでしょうか。スクラップ・アンド・ビルド。九州大学の新たな展開に期待しています。

―田会長が工学部をご卒業になった昭和三十三年は、創立五十周年が目前という時ですが、どのような学生生活だったのでしょうか。九大生時代の思い出をお聞かせください。
田崎 私が入った機械工学科は、工学部本館がホームグラウンドであり、生活の場でした。博多の呉服町に大丸デパートができた頃です。私たちは中学から男女共学になり、教室でも男女交互に座るというように、ある意味では無理矢理、男女仲良くさせられて育った世代ですが、九州大学の工学部に入ってみると男しかいないわけです。それは淋しいということで、福岡女子大学の学生と混声合唱団を編成したり、工学部本館の地下食堂でダンスパーティを開催したり、これは事前の届けを忘れて怒られましたが、そういうことを盛んにやっていました。

―青春を謳歌された、ということでしょうか。
田崎 勉強ものびのびとやりました。ちょうど、有名な先生方が退官される直前の時期で、歯車の和栗先生、熱工学の岡本先生、関門トンネルの換気プロジェクトに携わった水力の葛西先生、材料力学の石橋先生といった錚々たる先生方が、古めかしいノートを開いて教えてくださいました。スポーツにも随分熱中しました。高校時代は卓球、大学ではテニスをやりました。いわゆるモボ(モダン・ボーイ)で、昭和二十八年には十八歳で自動車免許を取り、工学部の自動車部では唯一免許を持つメンバーでしたよ。山登りも好きで、よく九重などに行きました。

―よく学び、またよく遊ばれた九大生であったのですね。そして卒業後、川崎航空機工業株式会社に入られましたが、それはどのような理由から?
田崎 大学四年の夏に企業実習に行くことになり、ジェットエンジンに興味があったので、川崎航空機工業を選びました。そして、実習を終えて帰ってきたら「内定」が来た。指導教官の清水先生に相談すると、「君たちは国費の子であるから、自分の自由ばかり主張するわけにはいかない。そこへ行きなさい」と言われました。そう大きな会社でないし、かなり自由にジェットエンジンの仕事がやれそうだ、というわけで就職が決まりました。当時の就職は、一社に一人の方針がありましたが、川崎重工業、川崎車両、川崎航空機が合併して今の川崎重工業になりましたので、合併後は二人九大の同期がいました。

Think globally, Act locally.
「着眼大局、着手小極」。
―そのような経緯で入社された会社で、社長、会長まで務められたわけです。長い間お仕事をしてこられて、どのような感慨をおもちでしょうか。
田崎 現在に至ってみれば、「時代の流れ」ということを強く感じます。私の入った会社は、重工業という、官業的要素の強い会社でした。それが今は、消費者の動向、マーケティングやグローバリゼーションといったことを常に意識して経営を行わなければならない時代です。
 私はジェットエンジンの仕事がやりたくて航空機の会社に入社したわけですが、戦後の航空機製造事業は伸び悩んでいましたので、私たちは米国を主な市場とする大型バイクの開発製造に取り組み始めました。既に小型バイクの分野ではホンダ、ヤマハやスズキが大きく事業を伸ばしていましたが、カワサキは大型バイクを中心に据えて事業を展開したのです。昭和五十六年八月にKAWASAKI MOTORS.,U.S.A.の社長となったのを含めて三回米国に駐在し、のべ十年間にわたって米国で働きました。その間に、マーケティング、グローバリゼーション、ブランドの大切さ、現地生産する上での工場間のネットワークづくりなど、造船中心の重工業の中だけでは経験できなかったであろう多くのことを学ぶことができたと思っています。つまり、オートバイと米国が私のバックグラウンドになったわけです。

南仏ボルドーPAUL RICARDサーキットにて新車発表会
―バックグラウンドがバイクとアメリカとは、意外でした。大型バイクでのツーリングがご趣味というのはそういうことがあるのですね。
 これまで仕事をされてきた中で、心がけられたことやモットーとされたことがありましたら教えてください。

田崎 Think globally, Act locally.「着眼大局、着手小極」。日本語は将棋の升田名人の言葉ですが、これが好きです。もう一つ、「天の時、地の利、人の和」。物事にはタイミングというものがある。迷ったときや困難に直面したとき、少し高いところから大きな視野で物事を見る訓練をしようと心がけています。

世の中に居ても居なくても
誰も困らない人にはなりたくない。
―最後に、後輩達へ、また九州大学へ、メッセージをお願いします。
田崎 資源の乏しい日本は、技術立国として生きる道しかありません。高い技術を持っていることが日本を守ることでもあるのです。しかしながら、今の日本には、諸外国特にアジアの国々と比べても、危機意識やハングリー精神が欠けていると感じます。  学生のみなさんには、世界の学生たちに負けない学生であってほしい。外国の学生達が懸命に頑張っている姿や、身に付けつつある優れた能力に対して、悔しいと思う気持ちを大事にしてほしい。教え方が悪いから身に付かない、自分がこうなったのは○○のせいだ、これではだめです。若い人には、自己責任を認識しもっと危機意識を持ってほしいと思います。
ZX9R 試乗 谷田部テストコース
 昨今は、子供の頃からできるだけ競争させない、敗者を作らないという風潮があると聞きますが、これには反対です。現実に、世界には様々な競争があるのです。その中で、弱者は皆でカバーしなければなりませんし、敗者には復活の道も必要ですが、競争は至る所にあるというのが現実ですし、それは世界が活性化するために必要な要素でもあるのです。勝者を目指して頑張っていただきたい。

(二〇〇五年十月二十六日、於伊都キャンパス)





 田崎会長は、このインタビューの後、伊都キャンパスで機械系三年生対象の講義に登壇しました。
 テーマは「異文化共存への道」アメリカ合衆国での勤務経験などからのいろいろなエピソードを挙げて、「常に好奇心を持つこと」「雑学の勧め」「異文化間コミュニケーションの難しさと大切さ」などを語りました。

――― 学生との一問一答 ―――

―学生 仕事をやっていく上で大切なことは?
田崎会長 Positive Thinking, ConstructiveOpinion. "Anyway, let'stry"と、何とかしようという前向きな楽観主義は大切。

―学生 高い技術力と低いコストを求めて海外での現地生産が進む中、我々日本人はどう対処すべきか。
田崎会長 資源の乏しい日本は技術立国が大前提。グローバリゼーションの時代となり、日本国内で閉じられていたチームには分解と組み替えが求められており、それ故に異文化とのコミュニケーションが大切になる。得意分野も外国との棲み分けが進むだろうが、日本は世界中で生徒を育てつつ自らも絶え間なく勉強する先生であり続け、広い分野でNo.1の技術力を維持すべき。

インタビュー中の田崎会長
―学生 自分は将来金持ちになり海外旅行もしたい。田会長のプライベートな目標は何だったか。
田崎会長 目的、手段、動機が混在しているのが若者だが、整理しなければならない。私が初任給一万八千円のとき、外国人技術者は二十万円、大使館の外国人は外国製スポーツカーを走らせていた。それを見て、自分たちも早くそのレベルの生活ができるようになりたいと思った。目標をどこに置くかが問題だ。「世の中に居ても居なくても誰も困らない人にはなりたくない」というのも目標になり得るのでは。金だけを目的とする人は、居なくても誰も困らない。

―学生 日本の会社は文系有利と言われるが、経営者としてどう思うか。
田崎会長 ものづくりの会社では、トップは理系出身者も多い。要は、理系と文系の垣根を取り払い、いろいろなことに好奇心を持ち、幅広く知識を蓄えること。どんどん雑学をやってほしい。何にでも自分の得意分野との共通項が見つかるものだ。


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