総長室にある郭沫若の書

郭沫若(かくまつじゃく)
1892年生まれ、中国・四川省出身。1914年に来日し、18年夏に九州帝国大学医科大学入学。入学後に詩作を始め、23年の大学卒業後は医者にはならず、文学の道を歩み、同時に中国での革命家として活躍する。初代中国科学院院長。



約二〇年前に中国から医学を志して九州大学に留学した何偉氏。帰国後は何氏眼科医院を開設し、貧しい地域の人々の無料診療にもあたっています。また中国初の民営化大学である何氏眼科視覚科学学院を創設するなど、中国の医学・医療のために積極的に尽力されています。人々のために役立ちたいという気持ちの原動力は、九州大学での体験にあるという何氏にお話を伺いました。



未知の国・日本への留学

柳原 先日、北京で行われた九州大学の同窓会で何先生のお話を伺い、梶山総長と私はたいへん感銘を受けました。先生が日本で医学を勉強されるきっかけは何だったのでしょうか。

何 中国では医科大学の修士課程に在籍しており、中国政府派遣の留学生として来日しました。あの頃は日本についてほとんど知識がなく、政府から日本へ行ってくれと言われて驚きました。九州大学も政府の指定でしたが、本当に九州に来てよかったと思います。東京や大阪に留学した人たちに比べて、私の勉強や生活が一番楽しかったと思います。九州の風土や人間性は、中国東北部出身の人間にとっては親しみを感じさせるものです。

柳原 私も九州には縁もゆかりもなく、以前は横浜にいました。横浜から九州に来るのは日本人でもかなり勇気が要りましたが、来てみるととてもいい所です。よそから来た人に対して排他的な意識がありませんね。ところで何先生は郭沫若(かくまつじゃく)が九州大学で学んだことをご存知なかったそうですね?

何 はい。九州大学の医学図書館で書を見て、九州大学医学部に留学していたと教えていただき、うれしく思いました。

柳原 郭沫若先生は医学部に留学していましたが、お体のこともあって医者の道を断念されました。何先生は医学の道で活躍されていますね。九州大学あるいは福岡で思い出に残っていることはありますか?

1987年に文部省奨学金による中国政府派遣留学生として来日。88年4月、九州大学大学院医学研究科博士課程(外科学専攻)入学。93年6月、学位取得。中国へ帰国後、中国初の民間眼科病院である何氏眼科医院を開設。また、同じく中国初の民営化大学である何氏眼科視覚科学学院を創設。貧しい地域で眼科の無料診療活動も続けている。

何 教育面では指導してくださった眼科の猪俣先生が印象深いです。留学生にも研究の自由を与えてくれ、「好きなようにやりなさい。あなたほど詳しい人は他にいないのですから」と応援してくれました。生活面では博多区にある大島眼科医院の松井院長と出会い、博多の人間の暮らし・気風の中に飛び込んで勉強以外のことを学びました。松井先生は「学術は教えないけれど、日本人や義理人情については教えますよ」とおっしゃっていました。

柳原 学位を取得するまでの間にはいろいろとご苦労もあったのでは?

何 日本の教育制度の中でいろいろな勉強をしましたが、当時はそれが全て将来役に立つとは思わず苦しく感じたこともありました。人体解剖も経験しましたが、私は眼科なので人間の解剖なんて嫌だったんです。また月二回は二日間ほど徹夜してレポートを仕上げることもありました。もちろん今はあの苦労があったから今がある、当時の経験が心と体の両方を鍛えてくれたと思います。

柳原 奥様も九州大学で眼科を勉強されたそうですね。

何 私が来て一年後に呼び寄せました。彼女は医学部の日本語クラスにいましたので、日本語を積極的に勉強しました。住まいは、最初は九州大学の留学生会館、次は日本人の家にホームステイ、その後はずっと松井先生が提供してくれた上呉服町の病院の寮にお世話になりました。二十七歳から三十六歳という、自分の人生の一番重要な時期に日本人と一緒にいたことをうれしく思います。



中国初の個人病院と無料診療

柳原 帰国後は何氏眼科医院を設立されますが、日本への留学生が病院を設立するまでには大変なご苦労があったことと思います。

何 この病院は中国第一号の民間眼科病院です。当時の中国では政府が個人病院を認めず、患者さんも個人病院に対する信頼感がありませんでした。病院開設の許可を取るにも、わざわざ瀋陽から北京まで出向かなくてはいけない。さらに中国の伝統的な考え方では、医者は五十代から六十歳以上でないと信頼されません。私は三十六歳で若かったので大変でした。

柳原 帰国後、病院を設立されるまでどのくらいの期間があったのでしょうか。

何 一年間ぐらいでしょうか。あの頃は一日四時間しか眠れませんでした。別な病院で朝八時から夕方六時、七時まで診療や手術。終わると会議などがあって、帰るのは毎晩一時、二時です。この合間に自分の病院を造るために建築現場へ行ったり、新しいスタッフのトレーニングなどをやっていました。

柳原 今はいくつ病院を開いているのですか?

何 三つの病院を直接、二つの病院を共同で運営しています。サテライトクリニックのような外来施設は三十七カ所あります。年間五十万人近くの外来患者があり、手術は一万五千例ぐらい。その半分は無料診療です。

柳原 今日はぜひ、その話を伺いたいと思っているのですが、内陸部で無料診療を行っているとか。

何 中国には白内障患者だけで五百万人いると言われていますが、年間手術例は五十万例しかありません。患者は毎年五十万人増えているので、五百万人の患者はそのまま残されているのです。さらに患者の八〇%は農村部の貧しい人たちで、何年も失明したままです。私たちも最初はこんなにたくさん、目の不自由な方がいるとは気づきませんでした。
たまたまこうした状況を知って、診療を開始すると次から次へと患者が来る。福岡のライオンズクラブから中古バスを一台送ってもらい、そのバスで「動く外来」を開きました。あるとき農村での診療の後、村のおばさんが食事に招待してくれたんです。食事といってもつぶしたコーンのおかゆと畑で採れた野菜ぐらい。ところがなかなか食事が始まらない。三十分も待ったでしょうか、粗末な家の裏でニワトリが鳴き、「卵を生んだ」という声があがりました。その卵を味噌炒めにしてやっと食事が始まりました。農村だから卵なんていっぱいあるだろうと思ったら、塩と交換したり、町で売ったりして自分たちが食べる分はほとんどないわけです。

柳原 卵一個はたいへん貴重なもので、それを大事なお客様だからと出してくださった。

何 私が日本で学んだことは街なかで偉い人を手術するためだけにあるのではないとそのとき決心し、農村を周るようになりました。

柳原 今、無料診療の数は通算でどれくらいですか?

何 通算で三万例ぐらいです。手術一例が十万円くらいですから、もしお金を受け取っていたらいま頃は大金持ちでしょう。この無料診療を始めたのは福岡での経験があったからです。いつも留学生を応援してくれた九州の人々から広く熱い心を学びました。



大学を設立して後進の指導に

柳原 何先生はそれ以外にも大学を設立して後進の指導に力を注いでいると聞いています。

何 中国の現状を見ていて、教育の目的は何であるかを真剣に考えるようになりました。医学生はいっぱいいても、農村の貧しい人たちには診療が施されない。この矛盾は学術・学問の問題よりも、大学の文化・教育の価値観によるものが大きいと思い、大学を作ったのです。

柳原 金儲けだけでなく、貧しい人々にも目を向けるお医者さんを増やしたいという気持ちから大学を開いたのですね。

何 人口比からすると、中国の眼科医の数は日本の十分の一です。加えて、その質も高める必要があります。この大学は中国初の民営化された大学です。民間病院、民間大学、そして民間の大学院と、すべて中国では第一号です。

柳原 今、大学院は大連にあるそうですが、来年は瀋陽に新しいキャンパスができると聞いています。

何 何氏眼科視覚科学学院です。医学部もあれば、医学をベースにした目の専門知識も勉強できます。卒業生は医者になってもいいし、眼科医になってもいい。ただし眼科医は数も少なく、仕事もしやすいため、中国の医学分野でも一番人気があります。

柳原 我々は中国に民間大学があるとは考えもしなかったのですが、先生のところには政府がある程度投資をしているのですか?

何 我々は非営利団体です。投資というより、収入の三〇%を国立大学に納入し、その代わりに眼科教育以外の基礎教育をその大学に担当してもらっています。収入の残りの七〇%は我々の経営に使いますが、非営利団体なのでお金は新しい施設の開設などに使っています。

幅広い何氏眼科医院の活動(左上、右上、左下) 九大大学院生時代の留学生サマーパーティーで(右端が何氏)


九州時代の恩返しの気持ちで

柳原 何先生が新しいことにチャレンジしていくエネルギーの源は何でしょうか?

何 日本と中国は同じアジアにあり、密接に関係した文化や歴史を持ちながら、日本はこれだけ進んで中国は進んでいなかった。日本人の忠実さや真面目さ、がんばりは宝物だと思います。私が学んだことを伝え、十三億の人口を持つ中国が国際貢献できるような国にならないと、我々が日本に留学した意味もありません。留学を終わった段階でアメリカやヨーロッパに行くお誘いもありましたが、きっと心は満足できないと思い、まだまだ不安定だった中国に帰ることにしました。
九州にいた頃、私はたくさんの方々の支援を受けました。私のチャレンジは私を支えてくれた人たちに対する感謝の表れでもあります。開業する時、途中で建設資金が足りなくなったことがありました。元九州大学の先生で春日市で眼科を開業していた上原先生という方が、何も言わずに何千万円も出してくれました。当時、上原先生は開業十年目で自分の借金を返済したばかり。本当に感謝しました。上原先生は「あなたは中国の将来のためになる人間です。もし、あなたが失敗したら、僕に人を見る目がなかっただけです」とおっしゃいました。松井先生や上原先生のご恩は死ぬまで返せないかもしれないと思っています。

柳原 何先生の人柄がそうさせるのでしょうね。だから周りに素晴らしい人たちが集まってくるのだと思います。

何 松井先生は三年前に亡くなられましたが、死ぬ前に枕元に僕を呼んで「あなたが素晴らしかったから我々はそうしたんですよ」と言っていただきました。僕が他人にできることなんてそんなになかった。ずっと好意を受ける方で、それを何とか返したいと思っていました。なぜこんなに頑張るかと言えば、やはり恩返ししかありません。

柳原 いいお話で感銘を受けました。九州大学としては何先生のような留学生がおられることをたいへん誇りに思います。現在、九州大学には中国からの留学生だけで五百人近くが在籍しています。ぜひ最後に留学生や日本人学生の後輩たちにメッセージをいただきたいと思います。

何 大学教育を受ける目的をもっと考えなければなりませんね。日本はもっとリーダーシップをとれるような人材を育てる教育を行わなければなりません。そして留学生には自分の国を愛すればこそ、日本を愛するということを覚えておいてもらいたいですね。日本にはいろいろな優秀な面があり、ここまで立派な国を作り上げました。学術はもちろん日本人の心、日本の文化もきちんと勉強して、将来自分の国のために役立ててほしいと思います。



九州大学総長室にかかる孫文の書の前で、梶山総長(左)と

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