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旧制福岡高校と旧九州大学第三分校
―秋山六郎兵衛、ヘルマン・ヘッセ、石中象治―
いわもと かつら
岩本 桂
(一九五五 経済学部卒)
T/1996年4月3日発行
U/1997年6月18日発行
V/1999年5月17日発行


 旧制福高といえば私はドイツ文学の秋山先生を思い出し連動的に石中先生が偲ばれてくる。石中先生は旧第三分校主事、私は学生としてドイツ語を学んだ。
 旧第三分校は福岡県外の文科系の入学者三百九名でスタートした。場所は久留米市国分町の旧陸軍四十八連隊の兵舎跡を転用した「欠陥分校」で、図書館も食堂も宿舎もなくグランドだけは贅沢に広かった。主事の石中先生はじめ諸先生方のご家族も学内の旧兵舎で生活されていた。石中先生は後になって学生の寮はまるで「どん底」の舞台のようだったと回顧された。結局一年半で閉校になったが、戦後の学制改革の過渡期を反映してドイツ語でいえば「ドイツ語初級」と「ドイツ語上級」のクラス分けがあり旧制高校で文法をマスターした者が「ドイツ語上級組」として発足した。旧制高校一年修了組も旧制福高、旧制佐高、旧制五高、旧制七高等とまるで「多民族国家」であり、学園の雰囲気も第一分校、第二分校とは異なる「新設の」独特のもので、諸先生方を含めた一種の運命共 同体をなしていたようだ。或る同窓生はその気分を日本の敗戦で閉鎖された「外地の学園」のようだと形容した。
 石中先生は晩学で旧制福高の第二回文乙卒で秋山先生に学ばれた。お二人ともヘッセの翻訳が多く、私は戦中から戦後にまたがった旧制中学時代の終わりの頃、九州佐賀市の古本屋で秋山先生訳のヘッセ作「車輪の下に」を購入したのが「ヘッセ入門」となった。先生が旧制福高の教師とは知らず、ドイツ文学者らしからぬ古風なお名前だと感心したのを今でも懐かしく思い出す。不思議なご縁で、二年前に古希を迎えた私は「虹の松原―ヘルマン・ヘッセと共に」と題した自費出版を果たせたのも今は亡き両先生のお陰だと感謝の念を新たにし御礼を申し上げる次第である。

(二〇〇三・二・十九 記)

石中象治先生
旧教養部本館屋上にて
(1963年4月24日)

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