総長松浦鎮次郎とその胸像

折田悦郎
(おりたえつろう 大学史料室専任講師)

 箱崎キャンパス文系地区のいわゆる九大北門を入って右手奥, 大講義室の裏に写真の九州帝国大学第5代総長松浦鎮次郎の胸像がある。 文系地区の人でもその存在を知っている人は少なく, また現在では松浦本人のことを詳しく知る人も殆んどいなくなった。 「松浦総長胸像除幕に際して」というパンフレットによれば, この像が建立されたのは昭和56年10月9日のことで, その中心となって活動したのは,松浦総長から多大な学恩を蒙ったという 九州帝国大学法文学部卒業生の 村岸義雄(昭和6年,法科)・菊池善隆(同)・藤井為六(昭和10年,経済選科)等の人々であった。

 松浦は明治5年1月10日,松浦素の二男として現在の愛媛県宇和島市に生まれた。 第一高等学校を経て,明治31年7月,東京帝国大学法科大学政治学科を卒業,内務省に入った。 同年12月文官高等試験合格。 東京府参事官,文部省参事官,大臣官房秘書課長,大臣官房会計課長,専門学務局長, 文部次官,京城帝国大学総長等を経て,昭和4年10月9日九州帝国大学総長となった。 同11年7月6日退官(同年11月21日名誉教授)。 九大総長在任中に当時の帝大総長の中ではただ一人勅撰の貴族院議員に任ぜられたが (昭和5・12〜同13・2),同13年2月枢密顧問官就任のため辞職。 以後,昭和13年2月〜同15年1月枢密顧問官, 同15年1月〜7月文部大臣(米内光政内閣), 同15年7月〜同20年9月枢密顧問官を歴任,昭和20年9月28日,73歳で逝去した。

 九大着任前に文部次官,辞任後に文部大臣・枢密顧問官の要職についた松浦は, 戦前期の本学総長の中では初代山川健次郎(元東大総長・貴族院議員,のち男爵,枢密顧問官) と並んで最も著名な人物である。政治的にはどちらかといえば憲政色と見られ, 政友会内閣の中橋徳五郎文相とウマがあわず京城に出されたと伝えられる (鬼頭鎮雄『九大風雪記』11頁*)。 当時としてはリベラルな思想の持ち主であり, 昭和初期の軍事教練で九大が軍事講話のみを行い実科教練を課さなかったのは, 文部次官時代の松浦が陸軍当局と折衝して, 大学における教練のあり方を上のように決定したからだという (『九州大学五十年史 通史』<以下『五十年史』>338 頁)。 学生時代の知人に美濃部達吉(東京帝大教授,初代九州帝大法文学部長<事務取扱>)がおり, また河上肇らと憲法問題で論争を行ったことや,京城時代, 直接には関係の無かった九州帝大の総長に選出され, 就任を懇請されたが容易に応じなかった時の逸話, あるいは本名「しげじろう」ながら愛称は「マツチン」, 本名を正確に読めたのは旧大名等の名に馴染みある徳川家達(公爵,貴族院議長) ただ一人だったことを自慢するなど,エピソードにも事欠かない人物であった。


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