教育行政学研究のために欧米留学した経験が示すように (明治39年2月〜同40年8月),現在では教育行政学者としての名声が高く, 『教育行政法』(明治45年)や,とりわけ 『明治以降教育制度発達史』全12巻(昭和13年5月〜同14年9月刊行,全12,665 頁) の史料的価値は,今となっては限りなく大きなものがある。 「一生の仕事」として引き受けたという『明治以降教育制度発達史』は, 明治維新から昭和7年末までの教育制度関係史料を編集し簡略な解説を付したもので, 完成までに7年を要した。その殆んどを松浦が執筆したが,彼は総長在任中, 九大で資料に朱を入れて東京に持参,新たな資料を持って帰学するのを 月に2度ずつ行っていたという(『五十年史』366頁)。 昭和9〜10年の両年度には,法文学部で専門の「教育行政学」の特別講義も行った**。 また学生らとの対話を好み,苦学生には学資の世話をするなど,学生を大事にした。 その一端は特別講義の受講生でもあった前述の藤井氏らが作成したパンフレットに記されている。

 松浦については『九大風雪記』が 「名総長の名高く,在任中の七年間が九大の黄金時代だつた」(11頁)と評しているが, その功績については 「一時頗る多難を称せられていた九州大学学園の空気を融和することにつとめた。 学内に落ちつきと平和を与え,各学部の教官・学生の研究学習の環境を整えた功績は, 有形の新施設設置にも勝るものであった。問題の多かった法文学部の再建をはかり, その研究的充実を陰に陽に幇助した。(中略)さらに,終始講座と教授の確保に力を尽した。 これらのことが深刻な不況下になしとげられたことを思えば 松浦総長の施設面に対する行政的手腕は高く評価せねばならない。」 という『五十年史』(367頁)の記事が最もよくその実態を伝えていよう。

 ところで,松浦の胸像が本部事務局や旧法文学部本館(旧研究所)近辺でなく, 戦後設置の文系地区に建てられた経緯については公式の記録では判然としない。 ただ先にこの胸像の紹介をされた徳本鎭法学部教授(現名誉教授)の 「文系キャンパスの胸像」(『九大学報』1294号,平成3年1月)には, 「創設以来,それまでの九大総長がいずれも理系出身であったのに対して, 初めての法学士の総長であり, どうも胸像が文系キャンパスに建てられたのもそのあたりに理由があったと風聞している。」とある。 なお,この像は徳本教授も指摘されておられるように文系地区唯一の銅像であり, 台座(前面・背面)には明治の元勲木戸孝允の漢詩をもとにした松浦の書が刻まれている。

*鬼頭鎮雄『九大風雪記』(昭和23年6月)は, 最近大学史料室において『大学史料叢書』第8輯として復刻した。 本文引用の頁はこの叢書によるものである。
**松浦は前任の京城帝大でも同大法文学部の講師を嘱託されており (昭和3年4月〜昭和4年10月), また別の史料によれば東京帝大でも教育行政学の講義を担当していたという。

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