味覚は食べられるものと食べられないものを識別するのに不可欠な感覚である。砂糖が甘いのは,味細胞の膜に砂糖と結合する受容体があるからだと考えられてきた。しかし,その分子の実体は謎であった。嗅覚,味覚はともに化学物質を検知する感覚であることから化学感覚とよばれている。化学感覚の受容体の分子生物学的研究は嗅覚から始まった。1991年に嗅覚の受容体遺伝子と考えられる多数の遺伝子が同定された。しかし,その受容体が実際に匂い物質と結合するという直接的な証拠はなかった。最近の研究によって,ようやく多くの研究者がそれらの受容体が実際に機能していると考えるようになった。一方,味覚の受容体も嗅覚受容体と類似の分子であると推測されていたがその研究は遅れていた。私たちは糖受容体の遺伝子を見つけ出すためにショウジョウバエを用いて過去8年間,研究を行ってきたが2000年にようやくその遺伝子の実体と機能を解明し論文として発表することができた(Ishimoto,H.,Matsumoto,A.&Tanimura,T.Science289,116- 119,2000 )。ショウジョウバエは遺伝学の研究材料として有名であるが,私たちは,特定の糖に対する味覚感度が低下した突然変異体の研究から,1982年に2種類あるトレハロースの味覚感度を支配するTre遺伝子を発見した。その後の研究からこの遺伝子が糖受容体の遺伝子であると考えていたが,遺伝子をクローニングするための手がかりがどうしても得られなかった。ところが,3年前にTre 遺伝子の断片を同定することができ,一気に解析を進めた。私たちは,Tre遺伝子が存在する染色体領域のDNAを出発材料として,味覚器が機械感覚器に変換したpoxn突然変異体を利用して味細胞で特異的にはたらいている遺伝子を探し出すというアプローチをとった。同定した遺伝子を欠失させるとトレハロースに対する味覚感度が低下すること,低感度突然変異体にクローニングした遺伝子を導入して強制的に発現させるとトレハロースに対する感度が回復することを確認した。さらに,この遺伝子が味覚器のひとつの感覚細胞で発現していることを明らかにした。私たちの仕事は,甘味受容体の初めての同定であり,また機能を生物個体のなかで証明した最初の味覚受容体である。

 味覚受容体の同定は米国を中心とした数多くの研究室がしのぎを削っていたテーマであった。私たちが投稿した論文の審査が異常に手間取っている間に,ゲノムデータベースから探し出しただけの未知の味覚受容体候補遺伝子についての論文が他のグループによって発表されるなど,心が休まる日はなかった。私たちの論文が受理された日に、ショウジョウバエの全遺伝子配列が公表された。そこには,私たちが解明した遺伝子が正しく予想されていた。ゲノムの全配列が解読された現在では,私たちが行った努力のかなりの部分を飛び越すことができる。今回,私たちは最初の突然変異体の分離と解析から遺伝子クローニングまでを国内において自らの手で決着をつけることができた。この発見によって,私たちは甘味受容の分子機構の全容を明らかにする出発点に立つことができたのである。

(たにむら ていいち 神経遺伝学)

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