九州大学は明治四十四年以来のつきあいである箱崎を出て、福岡市西区元岡・桑原地区へ移ろうとしていますが、教官、学生双方から自発的に箱崎とのつながりを再認識し深めようとする動きも出ています。その中心になって活動している法学研究院の今里滋教授に、箱崎と九州大学の歴史を含めてお書きいただきました。

箱崎と九州大学

法学研究院 教授 今里 滋

 九州大学は明治四十四年に糟屋郡箱崎町に設立された。それ以前の箱崎は「地蔵松原」が白砂青松の海岸に沿って帯状に広がり、その南側に大畑作地帯が展開する豊かな農村であった。これらの畑からは「博多ネギ」、「博多キュウリ」、「博多長ナス」など、”博多ブランド”の野菜が生産され各地に送られていた。その野菜栽培に必要な水ははねつるべと呼ばれる井戸から汲まれた。便利なスプリンクラーなどあろうはずがない。農民は来る日も来る日も重い水桶を肩に担い畑に水をまいた。肩は腫れ上がり、野良着が血で染まるのは日常だったという。「俺たちは肩で野菜を作ってきた。」今は亡き古老達は誇らしげにそう語った。日本三大蔬菜(そさい)の産地に数えられたこのすばらしい農地は、しかし、九州帝国大学工科大学の設立という”国家的大事業”のために土地収用法で取り上げられ、農民達は現在の鹿児島本線の南側に新たに畑地を開墾せざるを得なかった。現在のキャンパスが農民の血と汗の結晶である畑を奪ってできたものであることを語るのは、わずかに地蔵の森の古石群のみである。

大学通りと「筥崎公会堂」
九大前電停(昭和40年)
現在の様子

 とはいえ、蔬菜農家以外の箱崎住民にとって、西新町との激烈な誘致合戦に勝って獲得した九州大学は天与の宝物に等しかった。爾後、万を超える九州大学教職員・学生は箱崎の経済を潤し、箱崎は大学街として発展していく。多くの家が下宿や間借りを提供し、家族の一員として温かい学生時代を過ごした九大生も少なくない。学生向けの食堂、麻雀店、銭湯が軒を並べ、箱崎は九大生にとって生活の場そのものだった。九州大学がある、両者はいわば唇歯輔車(しんしほしゃ)の関係を築いてきたのである。今は滅多にみられなくなったが、戦前は大学の催しに地元住民が招かれたり訪れたりするのはそう珍しいことではなかった。その温かく和やかな地域と大学の関係は大学紛争の頃から逆方向に変化していく。

 筆者は助手に採用された頃に箱崎に住みつき、この十年ほど地元のまちづくりに関わってきた。十年目の昨年十月には、「筥崎公会堂」というコミュニティ・レストラン付きの「民設公共スペース」を大学通の中心に建設した。まちづくりに関わるようになった動機は、箱崎で生まれ箱崎で育った娘に少しでもいい居住環境をプレゼントしたいという素朴な思いであった。

 平成三年春に筥崎まちづくり放談会という箱崎・筥松両校区 ― 当時。現在は、東箱崎および松島校区を加えて四小学校区になっている。総合して以下筥崎地区と呼ぶ。 ― の現状や将来について率直に語り合う会を有志で立ち上げた。その年の秋、「九大の西区元岡移転」が決定された。筥崎地区に晴天の霹靂のごとき衝撃が走った。放談会は九大移転に関する住民意識調査を急遽実施した。その結果を待って「Yes or No 九大移転?」という地域シンポジウムを企画し、高橋学長(当時)に出席を依頼した。しかし、答は「地元の区長や議員の了解を得ているからそんなところに出る必要はない。」今は故人となった彼のこの一言に、私は、九州大学と箱崎が共に築いてきた歴史は一体何だったのか、暗澹たる気持ちにさせられた。

 この調査から明らかになったのは、箱崎という地域に、とくに商店街に、九大を何としてでも引き留める力も意志も残っていないということであった。経営者が高齢化したり後継者がいない商店が驚くほど増えていた。例外に漏れず、箱崎でも商店街の空洞化が始まっていたのだ。放談会は、活動の方針を「九大移転阻止」ではなく「移転後の跡地利用」に定め、九大移転後の箱崎のまちづくりを模索し始めた。

 だが、箱崎を襲った”激震”は、実は、九大移転だけではなかった。地域住民が長らく待ち望んでいたJR鹿児島本線の高架化が実現することになったからである。正式名称は「筥崎連続立体開発事業」。昭和五十五年に筥松小学校の児童三名が一度に列車にはねられ落命したことを悲しんだ地元住民のねばり強い陳情の成果であった。この事業は単に線路を高架にするというだけのものではない。沿線一体を区画整理することによって幹線道路網を整備することが福岡市の狙いである。現に、勝楽寺前から原田方面にかけてすでに幅員二十二メートルの道路がほぼ完成している。西側の国道三号線を含めるとこの十年ほどの内に箱崎校区は四方をぐるりと二十二メートルの道路に囲まれることになる。この道路体系の変化により箱崎の街並や土地利用が激変することは明かである。九大移転と高架事業及びそれに伴う道路体系の再編。箱崎校区は百年に一度あるかないかの大変化に直面することになったのである。

 とはいえ、九大移転後の箱崎の未来像はまだ明らかではない。放談会のねばり強い働きかけで箱崎と筥松の両校区にまちづくり協議会が誕生し、活発な活動を展開している。コミュニティとしての箱崎地区は、もともと、筥崎宮を中心に千年以上にわたって豊かな海と山の幸を享受してきた農漁村であった。だからいわゆる「隣保共同の団結」が今も残っている。海側には藤野、安武、山崎、山側には児島、一木、古田といった姓を持つ世帯が多い。住民の人情は厚く、地域を愛する気持ちは強い。連綿として続く独自の伝統芸能や文化は、正月三日の玉せせりや放生会の際二年に一度挙行される御神幸(おみゆき)にその一端を見ることができる。そんな地域のまちづくり活動はいったん軌道に乗ると驚くほどのスピードとパワーで走り出す。今の世代には無理でも、次世代に、美しく住みやすい、そして温かく人情豊かなまちを残したいという思いは着実なまちづくり活動の展開となって結実しつつある。その過程から必ずや輝かしい箱崎の未来像が創出されると信じたい。

研究室を探検。

 その兆しは、昨年の九月十五日に箱崎商店街を舞台に開催された「サイエンス放生会 in 箱崎」に見ることができる。日本の基礎科学の衰退を案じ、子どもの頃からの科学体験を通じて科学を支える人材を育てようと活動している「科学公園をつくらんかい(会)」と箱崎商店街連合会、そして筥崎まちづくり放談会が共催したイベントには子どもや親子連れなど約五千人が参加した。九大の教官も参加している「つくらんかい」の構想は、九大跡地に子どもが科学を実体験できるサイエンス・パークを建設しようということだ。このアイデアは地元でも多くの共感を得ている。一部には、箱崎小学校と箱崎のはずれにある箱崎中学校とを九大跡地に移転させ、科学教育を柱にした新しい小中一貫校を創ってはどうかという声すらある。大学のまちとして発展してきた箱崎が、九大なき後も、日本の科学を担う若き人材を育てる学問のまちとしてよみがえる。考えただけでもうれしくなる未来図ではないか。

 去る十一月初旬、箱崎小学校の五年生が総合学習単元「見たい、知りたい九州大学」の一環として箱崎キャンパスを訪れ、大学構内や研究室を訪問した。また梶山新総長にも子どもたちと語り合っていただいた。この催しは、また、筆者が申請した文部科学省の「大学等地域開放特別事業」でもあり、箱崎まちづくり協議会九大跡地部会の「探検!九州大学」対象事業でもあった。要するに、箱崎小学校、九州大学および箱崎まちづくり協議会が協働して、子どもたちが九州大学箱崎キャンパスを体験し、跡地利用を考える機会を作り、支援したのである。子どもたちは何人もの教職員・学生に”突撃インタビュー”を行い、研究室の模様やスタッフの話を真剣かつ克明にレポートし、またそれぞれに興味深い「跡地利用計画案」と模型を作ってくれた。

子どもたちのワークショップに参加した筆者の胸にもっとも強く残ったのは、「九大の学生さんの笑顔がとてもすてきでした。九大がなくなっても、あの笑顔は残ってほしいなと思いました。」という女子児童の言葉だった。学ぶことの幸せをかみしめる若者から自然にこぼれる笑み。その笑みがあふれるまちのすばらしさとその笑みがなくなっていくことの悲しみ。短い体験の間に箱崎の子どもたちはそのことを感じ取っていたにちがいない。それは九大と共に八十年を過ごした箱崎というまちの思いでもあるだろう。九大を見送った箱崎が”スーパー・コミュニティ”として発展していくよう尽力する決意を新たにして、拙文を締めくくりたい。

(いまさと しげる 行政学)

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