最近の読書から三冊を選んで「九大広報」に紹介するよう、広報委員に対する慫慂があった。やや趣旨から外れるかも知れないが、触発され、なお、いまだに気に掛かったまま(注1)という筆者の読書経験の一端を述べさせていただきたい。

 DoverのペーパーバックにArt&Geometryという110ページほどの小さな書物[2](注2)がある。著者William M. Ivins, Jrは、ニューヨークのメトロポリタン美術館の幹部(館長・版画部Curator)の任に長くあり、特に、忠誠フランドル版画を専門にしていたことが文中から窺える(注3)。ギリシアの古典美術の世界からルネッサンス以降の遠近法絵画の展開までを主軸に、ユークリッド幾何と射影幾何それぞれの無限はあくの特徴を対比させつつ、深い学識と健全な平衡感覚に基づいて淡々と論じる著者の姿勢がいかにも印象的である。著者の基本的なアイディアは、芸術作品の観察を通じて、ルネッサンスの南欧人が空間を視覚的に把握してきたのに対し、古典ギリシア人の空間認識の特徴は触覚的--筋肉感覚的--と考えるべきであることの指摘(注4)であったろう。著者は、さらに、空間認識の特徴が、哲学や数学を含む文化社会の全体にも深い影響を及ぼしていることの検証を試みている(注5)。当然、われわれ---日本人---の空間認識はどんな構造をしているのか、また、それはわれわれの文化社会にどうはんえいしているのか、という問を想起させられる。これらは理系文系の枠に収まらない広範囲の学際的な取り組みが要求される重い課題(注6)である。

 Ivinsの書物は、しかし、もともと半世紀以上昔に出版されたものであり、アメリカでは第二次大戦中も平時同様の生活が営まれていたとしても、戦前の比較的安定した時期(1930年代)に得られた知見が収められていると考えるべきである。したがって、特に、古典ギリシア人やルネッサンス南欧人の空間認識を論ずる基礎となった著者の実験や観察、さらに、それらの解釈については、今日の人間の脳に関する種々の研究成果を反映させた見直しがなされてしかるべきであろう。重要なことは、著者の立脚点にこのような検討を許容する客観性が認められることである(注7)。

 一方、Ivinsの観察には、幾何学の成り立ちと古典ギリシア人の空間認識の特徴との関係をめぐって、現在の数学者の立場からも看過し得ないものがある。触覚的空間認識の特徴として、至近のものに対しては精密であるが、遠方、特に、無限遠は的確に扱えず、また、動くものの把握も不充分になることが挙げられる。これらはわれわれが素朴ながら漠然と古典ギリシアの自然哲学の成果として信じてきたこととは一致しないように思われる。しかし、ユークリッドの幾何学原論が平面上や空間内の狭い範囲にある動かない図形や物体の詳しい議論から成り立っていることも事実ではある。今日では平面幾何の展開もユークリッドのままではない(注8)。しかし、ユークリッドの原論は背後にあるプラトンのイデアの思想とともに、長い間数学的理論体系の規範として尊重されてきた。古典ギリシア人の空間認識の(敢えて言うが)偏りの痕跡が、今日の数学体系や科学体系に依然として、認められはしないだろうか---そういう疑念が頭を掠めるのである。

 現代の数学は確かに古典ギリシアの数学を先祖として仰いでおり、数学的認識を論ずるときはプラトン的イデア(注9)への言及は避けられないようである。数学の応用家がイデアを気にする場面はそう多くはないかもしれないのだが、純粋数学の研究者が数学的実質に思いをはせるときには何かそれを担うものを感得しているはずで、それとイデアとの親近性は不思議ではない。現代数学が19世紀までの西欧の数学の基盤の上に成り立っていることは明らかだが、現下の数学の展開では東洋圏で育った人たちの貢献がますます大きくなって来ている。かれらのものの感じ方は西欧文化の伝統的規範に属するものとは異質であると思うべきだろう。もちろん、われわれ日本の数学者も西欧人とは見方がどこか違うはずである(注10)。それでも、なお、現代人はこのような文化的な基層性を越えて数学を共有しているのである。その証拠に、現代の科学が成立し、特に、その結果として、産業技術が展開され、経済運営や行政遂行がなされている。数学をプラトン的イデアの世界として把握する事は本当に適切なことなのだろうか(注11)。Peirceの記号論を下敷きにして、数学をするという営みを理解しようとするRotmanの試み[7]は興味深いものであるが、筆者にはまだ十分に消化できてはいない。

(よしかわ あつし 数学)


参考文献
[1]細井淙.和算思想の特質.共立社.1941.
[2]William M. Ivins. Art & Geomtry -- A Study in Space Intuition. Dover Publications, Inc. 1964(復刊.原書出版 Harvard University Press. 1946).
[3]小平邦彦.幾何への誘い.岩波書店.2000.岩波現代文庫(学術7).
[4]Chris mortensen. Inconsistent Mathematics. Kluwer Academic Publishers. 1995.
[5]Roger Penrose. The Emperor's New Mind. Penguine Books. 1991. (初刊:Oxford University Press. 1989).
[6]Henri Poincare. La Science et I'Hypothese. Flammanrion. 1989.
[7]Brian Rotman. Mathematics As Sign: writing, imagining, counting. Stanford University Press. 2000.
[8]柳亮.続黄金分割---日本の比例---.美術出版社.1977.
[9]横地清.数学の文化史.森北出版株式会社.1991.

注1実は、筆者は、Ivinsの書物[2]を材料に、来秋からでも、六本松で「小人数セミナー」を担当してみたいと考えている。
注2文末に参考文献は一括して掲げた。[2]はその参照番号である。
注3著者の履歴や業績の詳細はインターネット
http://artarchives.si.edu/findaids/findaids.htmから容易に知られる。siはスミソニアン・インスティテュートの略である。ちなみに、ボストン東洋美術館における岡倉天心は、Curatorとして我々にも親しい。
注4空間認識と感覚との関わりはPoincare([6]第4章)でも注意されている。
注5Ivinsは、古典ギリシア文化に対する伝統的な評価が(特に19世紀のウィーン学派の)信念---予断が先行した結果であって具体的な事実観察に基づいたものではないことを力説する。古典時代のギリシア人は今から2500年以上前の社会に生きていたのであり、彼らに多くの長所があったにしても基本的は原始人なのだから、それなりに対応化されるべきだというのである。
注6柳[8]はわれわれの居所を確かめる上で興味深い。横地[9]は大陸(隋唐)の仏教遺跡の壁画などに潜む数学的構造を丹念に述べている。
注7なお、脳科学や心理学、行動科学との関連で今日的な再検討がなされるべきであり、折角総合大学に籍を置いているのだから全学的な会議の折りにでも関係の研究者に尋ねるところから始めようかと思いつつ、何も果たしてはいない。
注8例えば、小平邦彦の市民講座[3]を見られたい。小平は平面幾何が図形の科学であることへの注意を喚起してもいる。
注9ここでいう「イデア」は冒頭に掲げた「アイデア」という語法とは違う。特にPenrose[5]第10章に詳細な記述がある。
注10例えば、原始的なところでは、細井[1](特に、「結語」)も参考になるであろう。
注11前述のPenroseを始め、数学者には肯定的な立場の人が多い。一方、哲学者には否定的な人たちもいる。例えば、Mortensen[4]、Rotman[7]。

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