していないのですが、仏教青年会という サークルに入って、日常的に夜問診療に 加わったり、夏休みに日之影や椎葉など 山間の村へ診療に行ったり、施設の子ど もたちに影絵をして見せたり、一生懸命 活動しました。
恍次郎社長:私の学生時代は、ちょうど キャンパス内に米軍機が墜落炎上して大 騒ぎになった (昭和四十三年六月二日)、 あの頃です。大学生時代、私は人生、人 類、世界、あらゆることに病的なくらい に悩んでいまして、この滅亡に向かって いるとしか思えない地球を救うにはどう したらいいか、世界連邦政府設立運動を 起こすしかないのではないかなどと真剣 に考えていました。
 妻と知り合ったのは三年生の春、六本 松の学生会館を会場に催されたダンスパ ーティーです。
純子副社長:サークルの資金稼ぎのため 当時盛んに開かれていたダンスパーティ ーで知り合って、以来ずっと公私ともに 一緒です(笑)。

Q 社長さんは、大学を出てすぐ会社を継が れたのですか。

恍次郎社長:昭和四十五年の八月に父が 病気で亡くなり、私は十月にたった一人 で経済学部を卒業して店を継ぎました。 実は継ぐ気は全くなかったのです。その 理由は三つあって、まず当時マルクス主 義に傾倒していましたから搾取階級にな りたくなかった、そんなに儲けもないの に両親が朝早くから夜遅くまで働いて苦 労しているのを見ていましたのでそれは イヤだった、自分が子どもの頃体が弱か ったのは菓子を食べ過ぎたからではない かという疑念から菓子づくりは男子一生

の仕事たり得ないのではないかと考えて いた。本当は商社に就職したかったので す(笑)。
 そんな私を見て母は、「苦労は多いし 継ぐ気がないのならそれでいい、店をた たもう」ということになって、弁護士に 相談したりお得意先にご挨拶したりして いました。しかし店を潰すにもお金が必 要で、大伯父に相談したら「お前は本家 じゃないか、本家を潰す金を貸したらご 先祖様に何を言われるか分からない。潰 してもいいからとにかく継ぎなさい」そ う言われて、では潰れるまでやろうと店 を継ぎました。
 要するに絶望的だったわけですが、あ る時、古事記や日本書紀で、神武天皇が 「飴をつくつて、広くこれをなめさせて 癒し、カを借りずに天下を平定しよう」 ということを言う下りを読んで、「これ だ」と思いました。平和の心で飴を作り 饅頭を作り、人の心を癒していけばいい のだ、これで自分の一生は決まったと思 い、非常にうれしかったのを覚えていま す。

Q 潰れるまでやろうと半ば絶望してお継ぎ になったお店を、今は福岡を代表するお 菓子屋さんに発展させられました。経営 者としてのご苦労の一端をお話いただけ ませんか。

恍次郎社長:社長の仕事で一番大切なの は、共通の目標を掲げ社員に浸透させる こと、いわば経営の理念を作って皆に示 すことだと思います。実感として、社員 がその日標の実現に向かって燃え、痺れ ないと、何も始まりません。その次に来 る事業計画は、むしろ社員が自主的に立 てるようになるといいのです。いきなり

経営戦略ではダメなのです。私は、二〇 〇一年を第二創業と位置づけて、その年 の新入社員とともに、最高峰の菓子づく り、信頼される世界一の老舗、社会文化 の発展への寄与など三つの経営理念を決 め、一品一品ベストな菓子づくりを目指 して挑戦しています。

Q 会社の経営には、社長を支えていらっし やる副社長さんのお力も大きいと思われ ますが。

純子副社長:ちょうど十年前の平成四年 に、会長であった母が急逝しまして、私 はそれから会社に入りました。結婚して すぐ男の子が四人続けて生まれましたの で、暫く工場に見習いで務めたり、各店 に雰囲気づくりのため花を生けたりはし ましたが、それまではずっと専業主婦で 子育てに専念していたのです。  私が育った家庭では、朝食夕食は家族 一緒に食べるのが当たり前でしたが、結


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