二〇〇一年八月、九州大学で脳死 からの膵腎 すいじん 同時移植が成功し、若年 性糖尿病患者に朗報をもたらしたこ とは記憶に新しいと思います。その 移植チームのメンバーであり、アメ リカで多数の移植経験を持つ杉谷先 生を研究室に訪ね、アメリカでの経 験や移植医療の現状などについてう かがいました

ア メ リ カ に 憧 れ て

Q
先生は八七年からアメリカに留学されて いますが、きっかけとなったのは何でし たか。

杉谷:八三年に九州大学の医学部を出 て、どこの科に行こうかと考えたわけで すが、私は大学時代ラグビーをしていた こともあって、頭より体力で行こうと思 い、第一外科に入りました。それから五 年間、外科医としての基本を学びました が、五年目を終えようとするころ、当時 は大阪の関連病院にいたんですが、そこ の医局長から留学する気はないかという 話があったのです。アメリカのイリノイ 大学だと。そのころアメリカに対する漠 然とした夢を持っていましたから即座 に、「わかりました。行きます」と答えま した。アメリカで何をするのかわからな いまま、とにかく行こうと、生まれたば かりの長男と妻を連れて渡米することを 決めました。

Q
アメリカでの生活はいかがでしたか。

杉谷:何の準備もなく丸腰で行ったわけ ですから、わからないことだらけでした。 英語がわからない、生活がわからない、 何を研究するかわからない(笑)。それ で、先輩がやってこられたことを受け継 いでいけるくらいにはなろうと決心し て、英語の勉強とアメリカの医師国家試 験に向けての勉強を始めました。 同時に大学では、ラットを使って脳の 神経と消化管の関係を調べる実験をずっ としていました。ストレスがあれば胃潰 瘍ができるというのはわかっていますよ ね。それがどこの神経で起こるのかを探 っていたのです。神経中枢の中で、スト レスで胃酸を分泌するところを治せば、 お腹を開けないで潰瘍を治療することが できるのではないかと思って、基礎実験 を繰り返していました。

転機の訪れ

Q
それは何年くらいされたのですか。

杉谷:三年間やりました。英語も大体わ かるようになり、国家試験に合格して医 師の資格が取れたころ、思いがけない転 機が訪れました。
 当時ピッツバーグ大学に同門の先輩の 藤堂先生がおられました。先生は八四年 ごろから渡米して、臓器移植、特に肝臓 移植の研究に携わっておられました。ま だアメリカでも数例しか移植経験がなか ったころです。その藤堂先生から移植を 見に来ないか、と誘われたのです。その 見学が私の進む道を決定づけました。
 そこでは腎臓、肝臓、心臓移植を見学 したのですが、藤堂先生たちの手はまる で魔法の手のようで、こんな手術ができ るのかと強い感動を覚えました。息も絶 え絶えだった患者さんが元気になるのを 目の当たりにして、自分もあんなふうに 手術をして患者さんを元気にしたいと思 二〇〇一年八月、九州大学で脳死 からの膵腎 すいじん 同時移植が成功し、若年 性糖尿病患者に朗報をもたらしたこ とは記憶に新しいと思います。その 移植チームのメンバーであり、アメ リカで多数の移植経験を持つ杉谷先 生を研究室に訪ね、アメリカでの経 験や移植医療の現状などについてう かがいました。 ったのです。それが強いモチベーション となって、以後の私の外科医人生を支え てくれました。


アメリカ留学時代。臓器を摘出して持ち帰る小型飛行機の中で一息つく。

Q
その後ピッツバーグ大学に。

杉谷:はい。藤堂先生から小腸移植を臨 床レベルに上げなければならないが、や ってみないかと言われて。モチベーショ ンを与えられ、研究目標までもらったら、 やらないわけにはいかない(笑)。その ころ小腸についてはまだ何もわかっていませんでした。胃と大腸はカメラで見る ことができますが、小腸はブラックボッ クスだったのです。小腸移植のための研 究を、犬をモデルに一からしゃかりきに なってやりました。
 臨床でも肝臓、腎臓、膵臓移植を学び、 実際に自分でも執刀を初めて行いまし た。ピッツバーグ大学に七年間いた間に、 肝臓移植は百例、膵臓移植は百二十三例、 腎臓移植は二百五十例くらい手がけまし た。 当 時 、 ピ ッ ツ バ ー グ 大 学 に は オ リ ン ピ ックのように世界中から研究者が集って 切磋琢磨していました。そこで日本や狭 い枠にこだわらないものの考え方や実 技、知識を学ぶことができたと思います。 執刀が続き、食事をしながら眠るような ことも珍しくない生活でしたが、その中 で日本に移植を定着させることを仕事に しようと思うようになりました。それか らヒヒの肝臓の移植を見学する機会も得 ました。

ヒヒの肝臓を移植

Q
ヒヒの肝臓を移植したのですか。

杉谷:アメリカは、移植を支える社会制 度が土壌としてあり、本人の意志さえあ れば何でもできるところです。レシピエ ントは末期のエイズで、末期肝不全とな り余命幾ばくもない状態でしたが、誰も ドナーがいない。当時はエイズの患者さ んには臓器が回ってこなかったのです。 この患者さんに何か生きる道はないか、 と考えたとき、ヒヒの肝臓に行き着いた のです。もちろん種が違えば臓器の移植はできない。たちどころに拒絶反応が起 きて紫色になる。それが「種が異なる」 ということの医学的意味なのです。しか し、エイズの患者は後天的免疫不全だか ら、抗体反応を起こしえない人たちです。 だからヒヒの肝臓に強い免疫抑制剤をか けて移植すれば可能性はある。それで 「やってしまう」ところがアメリカのす ごいところなんですが、患者さん自ら 「どうせ命がないのだから自分が実験台 になって人類のお役に立ちたい」と申し 出られた。そして移植の結果二か月近く 生きておられました。常識では十五分と もたないヒヒの肝臓が二か月機能したの です。人類は次の世代で種の壁を克服す ると思いますね。


州大学で行われた膵腎同時移植で執刀する杉谷講師。

帰国のきっかけ

Q
九七年に帰国されましたね。

杉谷:十年間アメリカにいて、このまま アメリカで生きていくか日本に帰国する か、実は非常に悩みました。最終的に帰国したわけですが、それには理由が二つ あります。一つは子どもの教育の問題で す。シカゴで次男が生まれて、長男は小 学四年生になっていました。二人の子は 外では英語、家では日本語を話していま した。全体の言語能力を百とすると、ど ちらも七十くらいのレベルには達してい るけど、日本語の「てにをは」がおかし かったり、英語もそうでした。このまま いけばどっちつかずになって、子どもの 将来をつぶしてしまう危惧がありまし た。アメリカ人として育てるか、日本人 として育てるか、親として決めなければ ならない時にきていました。そうしたと きに、中学・高校レベルのアメリカの教 育は、アイデンティティがしっかりして ない子どもには自由すぎて受け入れられ ないと思ったのです。その前に帰ろうと。 二つ目は医療の問題でした。家族の誰 かが病気になったときはどうなるか。移 植手術などすばらしいと思いますけど、 それはお金のある人が受けられる医療な んですね。保険は「受ける」ではなく 「買う」という意識です。移植までカバ ーする保険は金額も高い。その保険金が 払えない階層の人たちもいっぱいいるわ けです。私はたまたま底辺層の人達が行 く病院でも働く機会があったのですが、 それはもう悲惨で、高水準の移植医療と は余りにもかけ離れた世界でした。父親 に撃たれた息子や麻薬常習者、麻薬がそ のまま打てるからと点滴の針を抜かない で帰る患者。アメリカの医療の上と下を 見て、家族の誰かが病気になったら、家 を売っても十分な医療を受けさせてやれ ないかもしれない、という不安がありま した。主にこの二つの理由で帰国を決意 したのです。

移植医療の問いかけること

Q
帰国されて、久しぶりの日本はいかがで したか。

杉谷:帰ってからしばらくは、アメリカ と余りにもかけ離れている現状に、逆カ ルチャーショックを受けました。日本は、 よかれ悪しかれ、非常に均質な国だと感 じました。こんな国は世界でも珍しいと 思います。

Q
九州大学に戻ってからは移植医療推進の ために努力されたのですね。

杉谷:帰国したらすぐに、九州大学に膵 腎移植を定着させようと思いました。し かし、日本には日本特有の事情があって、 技術的には移植できるのにそれができな い、複雑な問題がいっぱいありました。 帰国後、厚生省から関係機関まで回って、 移植のためのルール作りなどに二年間を 費やしました。一方、第一外科の中で助 手を育てる仕事もありました。移植はチ ームですから。それから九州大学の倫理 委員会に提出する書類も作らないといけ ない、臨床もしなければいけないと、目 の回るような忙しさでした。

Q
そのころ日本の移植事情はどうだったの でしょう。

杉谷:私が帰国した九七年は、臓器移植 へ向けて初めてネットワークができたこ ろでした。翌年の十月にやっと臓器移植 法が制定され、九州大学でも、福岡県で も移植に向けてムードは高まっていまし た。でも二年間脳死のドナーは出なくて、 二〇〇〇年に初めて高知で出ましたね。 そしてあれだけセンセーショナルな問題 になりました。それから今まで脳死から の移植は二十例あります。やっとどうに かこうにか脳死というものが受け入れら れる時代になったかなと思います。

Q
脳死は人の死かどうかでずいぶん長い間 問題になっていました。今でも抵抗があ るようです。

杉谷:結局、臓器提供を前提にした場合 は脳死が人の死、それ以外は心臓の停止 が人の死と、人の死が二つになって、非 常にわかりにくくなってしまった。日本 で移植医療が伸びていかない理由の一つ もそこにあると思います。どの時点をも って生命の誕生とするかが医学の発展に よって変わってきたように、死にも「死 に至る過程の時間経過」があって、その どこを死ととらえるかは時代、文化、国 民性によって変わってくるものなので す。そこの理解が日本ではまだ 不十分ですね。

Q
移植は人の死を待つ医療 と言われていますが。

杉谷:それは違うと思いま す。むしろ死んでからも誰かの体の中で 生きる、死んだ後も生きることを選択す るか否か、だと思います。人間である以 上、死は確実に訪れるわけですが、自分 の人生の結末をどう迎えたいか、移植医 療は、自分の死を自己責任で判断するこ とを問いかけているのです。

I字型人間より 逆T字型人間を

Q
今後の抱負やこんなことがしたいという夢をお聞かせください。

杉谷:現在、膵腎同時移植では一人のド ナーから一人のレシピエントにしか移植 はできませんが、膵臓は膵頭部と膵尾部 と二つに分けられます。腎臓も左右二つ に分けられるから、一人のドナーから二 人の膵腎移植が可能です。それからまだ 日本で例がありませんが、お母さんから 娘へといった生体膵腎移植を手がけた い。九州大学でそれができないかと思っ ています。今はいろいろ難しい問題があ ってできませんが、私が夢を語っていれ ば、次か、次の次の世代で実現され るかもしれない。それでいい のだと思います。

Q
最後に学生へのメッセージを。

杉谷:私は、一つのことだけに秀でたI 字型人間より、何でもできるがその中で、 一つか二つ誰にも負けないものを持つ逆 T字型人間になってほしいと思います し、そういう後輩を育てたいと思ってい ます。
 また、学生には、どこかでモチベーシ ョンを得る機会を持ってほしいと思いま す。強い感動を受ける機会を持つこと。 人の命を預かる医者に大事なのはハー ト。感動を受け、夢に向かって間口を広 げて向かって行くひたむきさ、そういう ものです。それから外科を目指す学生は 技術を磨くこと。「何かができる技術」 は絶対に必要です。手首を三六〇度回せ ないといけません。今年二月に急逝した 私の恩師は「皿回しのできる外科医にな りなさい」と言って私を鍛えてくれまし た。
ドナー:臓器移植の際、臓器提供者をいう。
レシピエント:同じく臓器移植の際、臓器提供を 受ける者をいう。



前のページ ページTOPへ 次のページ
インデックスへ