アジアのネットワークポイント作りなど、 九州大学の国際交流活動の現状をご紹介する記事は、 これまで随時掲載してきましたが、 今回は活動の当事者からの原稿をまとめてご紹介します。
 中味は、杉岡前総長による韓国研究センター設立の周辺、 梶山総長自らタイへ渡って調印したマヒドン大学との協定、 短期留学コース生による九州大学留学体験記、 九州大学留学生会によるキャンパス清掃、 JICA集団研修コース紹介、派遣留学生による米国での留学生活紹介、 留学生センター作の日本語教科書紹介と、盛りだくさんです。
 九州大学の多岐にわたる国際交流活動の一端をご紹介できればと思います。

国際交流
1.

 日韓親善の推進に功績があ ったとして、杉岡洋一前総長 に、大韓民国政府から勲一等 に相当する勲章「無窮花章」が贈られた ことは、前号でご紹介しました。本号で は杉岡前総長が、韓国との交流進展の契 機となった一九九八年十一月の金鍾泌 (キム・ジョンピル)大韓民国国務総理の 本学での講演と、韓国研究センター設置 などその後の周辺事情をご紹介します。

二つの決断
韓国研究センター創設の経緯
九州労災病院長
九州大学前総長

杉岡 洋一

 医学部在任中からの知友であった石井 幸孝JR九州会長が、徐賢燮(ソ・ヒョ ンソプ)駐福岡大韓民国総領事を伴って 総長室を訪ねてくださったのは、確か私 が九州大学総長に就任して三年目の一九 九八年十月のことであったと思う。ご訪 問の目的は、当時の大韓民国国務総理金 鍾泌閣下が九州大学での講演を希望して おられるので、九州大学としてお受けで きるか、ということであった。そのお話 を伺った途端、私は九州大学にとってま たとない機会であると思う一方、これは かなりの難題だと思った。というのは、 学内には、大学であるからこそ、色々な 考えをもった方々もおられ、その上、当 時の日韓関係は円滑というより、むしろぎくしゃくしていたからである。金鍾泌 総理は、その関係打開にむけて小渕首相 との日韓主要閣僚懇談会を鹿児島で開催 し、韓国人の末裔である薩摩焼きの陶芸 家沈寿官氏を訪ねた帰路、九州大学を訪 問したいご意向と伺った。
  九州大学のアジア、特に東南アジアに おける過去の莫大な研究業績、現在まで も絶えることなく続けられている密な学 術交流実績とその地域の教育への貢献な どを考えた時、私は九州大学は東京を向 くより、アジアを向くべきだ、という信 念に近い考えを持っていた。その姿勢を 貫き、今後の九州大学の進む方向が、ア ジアを見据えた世界であるためにも、ま たその拠点として位置づけられる上で も、金鍾泌国務総理の講演は、大きな契 機となるに違いなかった。
九州大学で講演する金鍾泌大韓民国国務総理
  その前向きな気持ちの傍らで、このこ とが、凶とでるか、吉とでるか定かでは なく、学内での騒動の火種になる可能性 や、講演会が成立しても聴講者が少なか ったり、失礼な言動がありはしないか、 などなど、気掛かりなことが次から次へ と脳裏を掠めた。確かに、失敗に終われ ば、過去の先達が築いた業績を無に葬る ことになりかねない。石井会長も大変な 話を持ってきてくれたものだ、と思わな かったと言えば嘘になる。しかし、前向 きに捉える気持ちの方が強かった。そこ で、当たって砕けろの気概で、まず文系 の各学部長に個別にご相談し、ご意見や 学内の雰囲気をうかがい知ることにし た。未だに、忘れもしないのは、まず最 初に伺った文学部長の菊竹淳一教授が賛 意を表してくださり、私と同様、九州大 学にとって光栄なことであり、またとな い好機だとおっしゃってくださったこと であった。そのことに勇気づけられた私 は、その日の内に、石川捷治法学部長、 伊東弘文経済学部長、古川久敬教育学部 長を訪ね、すべての学部長から、積極的 な賛意を頂戴した。このことが、私の決 断を早め、金鍾泌国務総理に有史以来五 人目、政治家として最初の九州大学名誉 博士の学位を授与することを提案し、評 議会で承認をいただいた。これで一つ目 の決断は、一九九八年十一月三十日に講 演会を行うことで、実を結んだ。 しかし、主催者側の私と、特に金総理 をお世話する立場の徐総領事は、聴講者が多く集まることと、講演中に不祥事が 起こらないことを、神に祈るような気持 ちで、講演当日を待った。中心となって 準備を進めてくださった柴田洋三郎副学 長、石川捷治法学部長を初めとした教職 員の方々と、金信夫在福岡韓国商工会議 所会長ならびに韓国の方々のご努力によ って、小雨の中、会場の創立五十周年記 念講堂は超満員となり、せっかく聴講に 来てくれた多くの学生諸君が警備の関係 で入場できないという、申し訳ない事態 となったほどであった。

1回アジア学長会議で挨拶する杉岡前総長

  それは、金鍾泌国務総理のもう一つの 大きな決断があったればこそと思う。そ の決断とは、正に異例中の異例、一国の 総理が日本語での講演を決断されたこと である。おそらく、多くの韓国関係者か ら反対があったであろう。それを押し切 っての決断であった。しかし、総理はさ らりと、自分は幸いにして日本語ができ る、通訳を介しての話は心を打たない、 若い九州大学生諸君と心が通じあうため に、敢えて日本語での講演を決断したと、 私に語られた。そこに、若干三十七歳で 韓国を代表し、身を挺して日韓賠償問題 を早期決着させた偉大な政治家の信条を 垣間見た。
  その講演は、「韓日関係の過去と未来」 と題し、流暢な日本語でまず九州大学の アジアへの学術的貢献に触れられたあ と、過去に縛られず、両国関係を未来志 向的に発展させ、近くて近い隣人の関係 を築くこと、それは、二十一世紀に無限 の可能性をもつ両国の若い人々が遠大な 夢を広げて、果たすべき課題であるとし て期待を述べられた。その力強い、抑揚 のある講演はすべての聴衆を魅了し、多 くの感動と共感を呼んだ。このような名 講演は、大学の歴史の中でも稀にみるも のであり、場内に入れなかった学生諸君 に対しては、一層慚愧に堪えない想いが 残った。 歓迎の演奏をした九大フィルの団員と 握手を交わされ、名誉博士の学位記をお 渡しした時に、即座に「これからは私は 九州大学の同窓です」と応えられるなど、 人間味のある、そして日本語での講演を 決断された偉大な政治家の姿がそこにあ った。

箱崎キャンパスに建つ韓国研究センター

  さて、講演後に日航ホテルで開催され た昼食会で、私は一つの夢を金総理にお 話しした。その夢とは、九州大学に留学 生を送っている各国に、それぞれの国の 特徴的な館をキャンパスに作ってもら い、学生が各国の文化に触れ、情報を得 られるようにしたい、そして最初に韓国 館ができたらといったことだった。キャ ンパス移転を控えた九州大学にとっては 無理なことでもあったが、その後、九州 大学は韓国研究の日本における拠点と位 置づけられ、国務総理は、韓国国際交流 財団を通して、人文・社会科学系の学術交流へ五年間で総額百万ドルの助成を行 ってくださった。そこで、私は総長裁量 経費を用いて、韓国研究センターを設立 することにした。その開館に当たって金 鍾泌国務総理は自筆の扁額を送ってくだ さった。正に総理の講演は九州大学の歴 史に大きく刻まれる出来事となった。そ の韓国研究センターも、私の在任中最後 の概算要求事項の一つとして、文部科学 省令によるセンターとして正式に認めら れることとなった。初代館長である石川 捷治教授のご努力が見事に実ったわけ で、今後の発展が約束されている。両国 の学生が、この韓国研究センターを足掛 かりに、二十一世紀の日韓の未来を切り 開いてくれることを願っている。
  その後、アジア学長会議が二回にわた って開催され、今年は釜山大学の朴総長 のお世話で、第三回アジア学長会議が釜 山市で十月に開催される予定となるな ど、九州大学のアジアの諸大学との交流 は、多くの実を結びつつある。また、こ の会議の目的である、過去の点と点を結 ぶ学術交流の関係を他大学にも広げて面 を構築するネットワーク作りも進めら れ、そのためのアジア総合研究機構(平 成十四年四月に「アジア総合研究センタ ー」に改組)も設置された。九州大学は アジアの拠点として、個性的な学術交流、 研究、教育実績が他の追従を許さないま でに、着実に歩を進めることとなった。
  去る三月に大韓民国から国民勲章無窮 花(むくげ)章を受章した折りに、朝食 会に招いてくださった金鍾泌自由民主連合総裁は、過去の歴代大統領の不幸な顛 末の歴史から、韓国には大統領制はなじ まないので内閣制をとるよう全国で遊説 中と申された。四年前と同じ弛まぬ愛国 心とその情熱には圧倒される想いであっ た。
  金鍾泌総裁に負けない若い世代の方々 の決断と行動力に期待して、筆を擱くこ とにする。

(すぎおか よういち 整形外科学)

※文中の職名などは、いずれも当時のものです。



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