インタビュー・シリーズ「九大人」

 九州大学には現在、学部学生約11,000名、大学院生約5,700名が在籍し、教官約2,300名、事務官・技官約2,200名が勤務しています。また、10万名を超えるOBが日本のみならず世界の各所で活躍しています。その一人一人のお話を聞き活動を見れば、九州大学のいろいろな側面が見えてくるはずです。

 このインタビューでは、できるだけ多くの、様々なところで活躍する「九大人」をクローズアップします。

NASDA(宇宙開発事業団)宇宙環境利用システム本部 宇宙環境利用推進部

宇宙飛行士 若田光一

 若田さんは、九州大学大学院工学研究科1989年3月修了。1996年1月と2000年10月の2回、日本人初のミッション・スペシャリストとしてスペースシャトル「ディスカバリー」で宇宙飛行を行い、正確なロボットアーム操作などで宇宙ステーション組立に大きく貢献するとともに、宇宙空間で実験観察も行いました。

 今回、大学院工学府航空宇宙工学専攻に社会人博士後期課程の学生として入学し、再び九大生となることが決まったのを機に、念願のインタビューが実現しました

興味を抱き続けて

Q:若田さんは、いつ頃から宇宙を目指してこられたのでしょうか。そのきっかけは?

若田:宇宙を目指してきたというのとはちょっと違うのです。アポロ十一号の月面着陸は一九六九年、私が五歳のときです。テレビを見たりして、宇宙に行って仕事をすることにあこがれは抱きましたが、それは限られた人にしかできない仕事、自分が行くことのできる世界ではないというような認識でした。
 私は埼玉県大宮市(現在のさいたま市)の生まれですが、父は鹿児島県出身、母は大分県日田市の出身で、年一回程の里帰りのとき乗る飛行機に、強い興味を抱きました。遊びで模型飛行機を作っては壊しまた作るなどするうち、将来は飛行機の技術者になりたいという思いが強くなりました。私はロマンチストではなく、実現可能なものを目指す方で、宇宙飛行士ではなくて、がんばれば実現可能な技術者を目指したのです。そして実現のために何をすべきか考え、理数系の勉強に力を入れるなど、中学高校を通じて飛行機への強い興味と夢を持ち続けました。

写真:宇宙開発事業団(NASDA)提供

Q:その結果、九州大学工学部航空工学科へ入学されて、修士まで修了されました。どんな九大生時代を過ごされましたか?

若田:九州大学では、すばらしい先生方や恩師に巡り会い、好きな勉強を思い切りすることができました。本当についていたと思います。家を離れて初めて下宿するなど、勉強以外でも貴重な経験ができました。九州大学で学ぶことで、飛行機についての興味はいよいよ強まり、鳥人間のチームやハング・グライダーのチームに加わったりもしました。

Q:ずっと飛ぶことに熱中してこられたのですね。

若田:単純なんですね(笑)。一九八五年、大学三年の夏に日航機の墜落事故が起き、その半年後の一九八六年にスペースシャトル「チャレンジャー」の事故が起きました。飛行機を安全に飛ばすことが如何に難しいかを思い知らされ、安全に飛ばすために飛行機の構造を研究しようと、専門は航空工学科の強度振動研究室へ入りました。そこで恩師、角誠之助教授に大変お世話になりました。就職も幸福なことに希望がかない、日本航空の機体構造技術担当として強いやりがいを感じながら仕事をしていました。宇宙飛行士募集のことは、たまたま新聞で見たのです。九大生時代と日本航空時代に修得した知識や技能が、宇宙飛行士の仕事につながったのだと思っています。

Q:宇宙飛行士の採用試験というと、どんな試験があるのでしょうか。試験対策をされましたか?

若田:宇宙飛行士は、全て同じ過程で四回選抜されています。一回目が毛利、向井、土井、二回目が私、三回目が野口、四回目が古川、星出、角野飛行士です。
 まず、研究開発経験三年以上という条件で書類選考があり、次は一般教養を含む公務員試験のような学科試験。それに通れば、一週間病院に泊まり込んで心理や医学の適性検査が行われます。そこで六人に絞られ、ヒューストンのNASAへ行って医学検査やミッション・スペシャリストとしてNASAの基準を満たすことができるかどうかのテストが行われます。その後帰国してNASDAの面接、閉鎖された空間で長期にわたる生活に耐えられるか、いろいろな国の人たちとの共同作業に適応できるか、緊急時に冷静に対応できるか、そういう心理検査などが行われました。

Q:大変な試験ですね。試験対策はされましたか?

若田:何もしていません(笑)。学科も何があるのか分かりませんでしたので準備できなかったのですが、逆に楽しかったし、試験でいろいろな経験ができました。病院へ泊まり込んだときは、自分と異なった環境から来た優秀な方々と一週間ゆっくり話をしてすばらしい友人もできました。NASAへ行くことができたときには夢を見ているようで、もう落ちても思い残すことはないと思いました。

目標をしっかり持ってアプローチの道筋を明らかにして、
諦めず努力すれば夢は必ず実現できます。

宇宙のオアシス 地球の美しさ

Q:さて、宇宙飛行士として、宇宙空間に漂う狭いスペースシャトルの中で、極度の緊張を伴う任務を遂行される訳ですが、リラックスするためや健康維持のために、何か心がけていらっしゃいますか?

若田:仕事をしている人なら誰しもそうですが、身体が基本で、健康悪化は即ミッションに影響しますから、健康管理と体力維持には日頃から気をつけています。週四日はジムに通っていますし、船外活動に必要な筋力維持のためにウエイト・トレーニングも欠かさず行っています。
 九二年八月に訓練を開始して、九六年一月には最初の飛行で三十二歳でした。あるところで妥協することが失敗につながるようなことがあってはいけない、できる限りを尽くしてそれで駄目なら仕方ないと、がむしゃらに訓練に取り組みました。その結果、充実した訓練ができ、満足と自信を得ることができました。ですから、宇宙空間で実験・観測システムを回収するという絶対失敗できない作業も、いい緊張感を持って遂行できたと思います。
 リスクは認識していますし、それは確かに計り知れないものがあります。しかしリスクがあることを納得して飛んでいるのですから、実際の飛行中は、恐怖感のようなものはありません。

Q:スペースシャトルの中はどんな具合ですか?かなり狭いように見えるのですが、眠ったり食べたりに不自由はないのですか?

若田:シャトルの操縦室は、ジャンボジェットの操縦室よりは少し広いくらいです。ミッドデッキは六畳一間といった感じでごった返しています。しかし、無重力で空間を三次元的に有効に使えるため、例えば食事も壁や天井に座って取るといった具合で、見た目ほど狭くは感じません。地上で見たのに比べると、宇宙では「こんなに広かったかな」と思います。国際宇宙ステーションの「きぼう」と名付けられた日本の実験スペースは、直径四メートル、長さ十メートルくらいあってゆったりした感じですよ。
 シャトルでの生活は、地上の日常と違って起きてから消灯まで分刻みで働きづめ、緊張しどおしです。仕事を終えてから床につくまでの緊張をほぐす時間がほとんど無いわけです。でも、とても疲れているので、寝袋に入ってフワフワしているうちにすぐ眠ってしまします。
 食事ですが、「宇宙に行くと味が変わる」と言う人と「同じ」という人がいますが私は後者です。ただ食欲は二割くらい減るようです。いわゆるレトルト食品で白ごはん、みそ汁、そして煎餅も持って行きました。みそ汁はストローで飲むのですが、ワカメが引っかかったりしてコツが要るのですよ。次はぜひラーメンを持っていきたいと思っています。

国際宇宙ステーション(ISS)の中で。
周りに浮いてる白い物質は、スペースシャトルから運び込まれた補給物資。
写真:宇宙開発事業団(NASDA)提供
霧のような薄い大気層に包まれた青く美しい地球を、多くの人に見てほしい。

Q:宇宙から還ってきた飛行士の方々は、表情も言葉も輝いて見えます。実際に宇宙を体験された宇宙飛行士として、宇宙へ行く意味をどうお考えでしょうか。

若田:輝いてみえますか?私は友人たちから、お前はちっとも変わらないなと言われているのですが(笑)。
 私の場合は、アポロの宇宙飛行士たちのように宗教的な感覚を得ることはありませんでしたが、地球に対するいとおしさと言いますか、地球環境を維持することへの義務感をはっきり認識しました。
 初めての飛行の時、無重力状態になって一分くらい後に、地球に夜明けが訪れるのが見えました。暗黒の宇宙にぽっかり浮かぶオアシスのような地球。その地球を薄い霧のような大気層が包んでいます。ごく薄いその層は、まるで地球を温かく包む手のような印象でした。シャトルは九十分で地球を一周しますから、日没から約四十五分後にまた夜明けがやってきます。シャトルの窓から鉛筆で測ってみると、うすい霧のようなその大気の層は、積乱雲の高さのおよそ八倍くらいのところまでありました。その美しさ。写真では分からなかった自分で見る地球の青、そして大気層の美しさは筆舌に尽くしがたく、もっと多くの人々に見てもらいたいとつくづく思いました。
 宇宙に行くことの意味はいろいろあるでしょう。宇宙空間で行われる実験は、人間の生活を豊かにしてくれる成果を生むでしょうし、観測結果は地球環境維持に貢献するでしょう。しかし、何故人間が宇宙に行く必要があるのかという本質的な問いには、それが、活動領域を広げるために新たな環境を求めるという、種としての人間に自然な活動であるからだと答えます。宇宙開発は、地球という故郷を再発見する活動であり、生命の歴史を思えば、種としての危機管理活動と捉えることができるのではないでしょうか。それは生命、種として自然な流れです。危険があるから行かないというのは、むしろ種として危険なことではないかと思うのです。

宇宙開発は、活動領域を広げるために新たな環境を求める、種としての人間に自然な活動。

Q:リスクのお話が出ましたが、今年二月一日のスペースシャトル「コロンビア」の事故について、お考えになったことをお聞かせいただけますか?

若田:この事故で、私はかけがえのない仲間を失いました。私たちはリスクを承知で飛行しているわけですが、彼らのご家族のことを思うと、胸が引き裂かれるようです。NASAでの会見でも話しましたが、早く原因を突き止めて将来二度と起こらないように安全対策を講じてほしいと思います。宇宙への仕事を続けることは残された者の義務であり、私は彼らの志を継いでいきたいと思っています。
 事故の後、九州大学での同級生や、アメリカ人の方々からも、メールやお手紙で励ましの言葉をいただき、とても心強いなと思いましたし、多くの方々が宇宙開発に期待していることを感じて身の引き締まる思いでした。原因究明へは、私も尽力したいと思っています。
 また、今回の事故は、日本にとっては、人類が有人宇宙活動を進めようとしている中で、世界に対してリーダーシップを発揮し、信頼できる仲間であることを証明する大事な機会ではないかと思います。今回の事故を契機に、アメリカはNASAの予算を増やそうとしています。日本も政府レベルで、その貢献能力の高さを証明すべき正念場ではないかと思っています。

九大生としての期待

Q:さて、嬉しいことに、社会人博士課程の学生として再び九大生になられます。何をしたいと思っていらっしゃいますか?何を期待されていますか?

若田:私が修士課程の学生であったときには、この社会人博士という制度は無かったと思います。今回このような研究の機会を与えていただきましたので、これまで学んできたことをより深めたいと思っていますし、先生や学生の皆さんとの意見交換の機会も作っていきたいと考えています。将来の有人宇宙開発を中心になって担うのは今の学生たちです。九州大学の航空宇宙工学分野では、宇宙システムなど様々な研究が行われています。九州大学の皆さんとのコミュニケーションを密にすることで、これからの私の活動にとっても貴重な経験が得られるだろうと思います。
 また、工学研究院長である村上先生は金属疲労や破壊力学がご専門で、「今回のコロンビア事故のような巨大事故の本質的な原因は科学技術の進歩と細分化そのものにあり、直接の原因としての一つの技術的な問題だけに注目すれば、同様な事故が繰り返し起こり得る」とおっしゃいます。私は、危機管理を日常の訓練でたたき込まれている宇宙飛行士として、村上先生をはじめとする工学研究院のご研究に参加していければとも考えています。

Q:最後に、「九大広報」の読者である九大生や高校生の皆さんへメッセージをお願いします。

若田:個人的にも社会的にも、これからいろいろな変化があるでしょうが、目標をしっかり持ってアプローチの道筋を明らかにして、諦めず努力すれば夢は必ず実現できます。目標と夢は、死ぬまで持ち続けてほしいし、私はこれからもそうしていきたいと思っています。

 ご多忙な中行われたインタビューの間、若田さんは笑顔で淀みなく質問に答えてくださり有り難かったのです。狭いシャトルの中で仕事をする際に、そんな若田さんのお人柄は、他の宇宙飛行士たちにとっても救いだろうと思われました。
 ようこそ再び九州大学へ!

2000年10月の飛行の仲間たち。ブライアン・ダフィー船長(前列中央)と
リロイ・チャオ宇宙飛行士(後列中央)は、96年1月の飛行時の仲間でもある。
写真:宇宙開発事業団(NASDA)提供

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