おおもり はるとよ
大森治豊と大森関係史料の寄贈について
大学史料室助教授 折田 悦郎
大森治豊。ドイツ滞在中の写真(明治31年)。

 六月五日、本部事務局貴賓室において大森治豊関係史料の寄贈が行われ、ご遺 族(大森裕子氏、大森治豊令孫故大森陽氏夫人。三村義雄氏、大森裕子氏令弟) から、大学史料室長有川節夫教授(副学長)に一連の史料が手渡された。大森治 豊関係の辞令、卒業証書、学位証書、手記等の史料である。「九州大学のしかる べき機関に保存し、学生・教職員の教育・研究に役立てていただきたい」とい うことから寄贈されたもので、上記三村氏の知人で本学工学研究院金光陽一教授 のご仲介によるものである。大森氏一行は、寄贈式前に大学史料室を訪問、また 式後は大森の墓所に参じ、医学部百年講堂・大森銅像の見学とともに、原田実根 医学研究院長との面会も行われた。

 大森治豊(一八五二年〜一九一二年)。九州大学の前身、京都帝国大学福岡医科 大学の初代学長兼附属医院長である。嘉永五年(一八五二)十一月十日、江戸神 田三河町生まれ。山形県南村山郡上ノ山町出身。明治十二年(一八七九)十月、 第一回卒業生十八人中の一人として東京大学医学部を卒業、同年十二月、福岡医 学校に赴任した。福岡医学校は明治二十一年(一八八八)四月、県立福岡病院に 改組され、明治三十六年(一九〇三)四月には、同病院を母胎にして京都帝国大 学福岡医科大学が誕生する。九州帝国大学は、明治四十四年(一九一一)に新設 の工科大学とこの医科大学とをあわせて創設されたものである。

本学の名誉教授第一号。
当時の授与者は内閣総理大臣である。
卒業証書。ベルツやシュルツ等の名も見える。
学位証書。

   大森は福岡赴任後、福岡医学校校長、県立福岡病院長を歴任、わが国内臓外科 の権威として活躍した。とりわけ明治十八年(一八八五)四月の帝王切開手術、 県立福岡病院時代の地方巡回診療、県立福岡病院の移転(明治二十九年六月。東 中洲から現在の本学病院地区の地に移転)、さらには医科大学を目指した活動 (例えば明治三十年六月の演説等)は、その業績として特筆される。福岡医科大 学創設時の施設建設(「創立設計ニ関スル調査」嘱託)や人材(教授)確保にお ける貢献は言うまでもない。本学の歴史は直接的には明治十二年(一八七九)の 福岡医学校にまで遡り得るが、それは大森とその同僚熊谷玄旦(東大同期卒業、 福岡医学校、県立福岡病院、医科大学でも同僚)の、福岡における一貫した活動 があったからである。

 明治四十二年(一九〇九)十二月二十三日依願免本官。同四十五年二月十九日 卒。墓所は本学病院地区の近隣、臨済宗大徳寺派の名刹崇福寺にある。明治四十 三年五月二十九日、後進子弟ら大森にゆかりの関係者の醵金(全二千九百五十七 名、合計一万五千七十六円三十五銭)により、医科大学構内に銅像が建てられた。 また明治四十四年五月十五日には、創立まもない九州帝国大学が名誉教授の称号 を授与して、彼に敬意を表している(右写真)。九州帝国大学最初の名誉教授で あった。大森をして、本学開祖の一人と見なし得る所以である(因みに名誉教授 の第二号は初代総長の山川健次郎。大正二年六月二十一日)。

   今回寄贈された史料は、このような大森の活動を知る上で参考になるだけでな く、わが国大学史・学術史の史料としても貴重なものである。総数二百五十余点 (辞令九十三点、褒・賞状三十四点、日本赤十字社関係二十二点、写真三十一点、 その他七十余点)。例えば、明治十二年(一八七九)十月の学位証書(東京大学 医学部卒業証書とセット)は、医学関係の学位証書(学士)としては本邦初のも のである(右写真下)。現物は東京大学の関係機関にも残されておらず、今のと ころ現存の確認される唯一のものと思われる。卒業証書と学位証書がセットにな るこの形式は、明治十二年(一八七九)〜明治十八年(一八八五)の時期、文部 省直轄であったいわゆる「東京大学」時代に特有のもので、以後の帝国大学(明 治十九年〜同三十年)・東京帝国大学(明治三十年以降)時代には見られない。 大森の時代の「学士」は「学位」であり、「学位」の認定は卒業証書をもって行わ れたからである(帝大時代の明治十九年〜近年まで、「学士」は単なる称号であ った。「学士」が「学位」として復活するのは、平成三年四月の学校教育法改正 によってである)。

 お雇い外国人として著名なエルウィン・ベルツは、その『日記』に大森らが卒業 した日のことを、「本日、医学部の盛大な祝典。国家試験を おえたのち、十八名の学生が、八年という規定の全課程を修了した最初の卒業生 として、学位免状を受取るのである!かれ等は、わが国のドクトルに相当すると いう『医学士』の称号を得た。国家の真に必要とする人材を育て上げたことは、 われわれドイツ人の大いに満足とするところである。数々の演説。それから折詰 め料理の立食。シャンパンが浴びるほど飲まれた。」(『ベルツの日記』岩波文庫) と記した。東京大学医学部最初の学位授与式の様子とその意義を知ることができよう。

   そのほか、福岡医学校・県立福岡病院関係史料としても貴重なものがある―例 えば、明治十二年十二月十五日の「福岡医学校教師」の辞令や、同二十一年四月 一日の「福岡病院長兼外科部長」の辞令等―。また大森の手記は、従来明治十三 年一月〜三月の「何事不記」が知られていたが(『九州大学七十五年史 史料編』 上)、今回は部分的ながら新たに明治十四、十五、十六、十七年のものが見つか った。上京・帰福の際に記した旅行日誌で、移動の行程、往訪先や会談の内容、 購入品名等が記載されている。道中では大阪・京都・名古屋の各病院・医学校を 訪問し、また在京中は母校東大医学部で治療や手術を見学している。文部省や内 務省に出頭することも多く、内務省衛生局長の長与専斎や愛知県立病院長、続い て内務省衛生局にあった後藤新平ともしばしば会談した(「手記」の解説につい ては、日比野利信・江島香両氏のご教示を得た)。

   ところでこれらの寄贈史料については、今後大学史料室で関係史料の精査を行い、 教育・研究活動に活用すると同時に、出来るだけ多くの人に見てもらえる ように工夫したい。当面は「本学記念日」等における展示・公開や史料の 復刻を考えている。

 なお、今回の寄贈では大森・三村両氏、仲介の労を取られた金光教授 は勿論のこと、墓参等の準備をしていただいた医学部第二外科教室を始めとし て、多方面から多大なご助力を得た。森良一名誉教授(元医学部長)、柴田洋三 郎医学研究院教授(総長特別補佐)、原田実根医学研究院長、田中真二第二外科 講師、小林晶氏(福岡整形外科病院理事長、日本医史学会会員)、原寛氏(原土 井病院理事長、日本医史学会会員)、空閑龍二氏(医学部同窓会本部)、総務部 企画広報室、同総務課等の方々・諸機関である。なかでも森、田中、小林、原の 各先生方には、六月五日の全行程にご同道いただいた。記して謝意を表したい。

(おりた えつろう)

初代の銅像は戦争中に供出され
現在は三代目の銅像がたっている。
大森史料の寄贈(6月5日。於本部貴賓室)

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