忘れられつつある在りし日の偉人
−九州大学医学部の留学生 郭沫若−

高等教育総合開発研究センター 助教授 武 継平(ウ ジーピン)

医学部実験室にて
 郭沫若(かくまつじゃく、一八九二〜一九七八)という人物は亡くなってすでに二十六年の歳月が経つ。彼の名はいま我々の記憶から消え去ろうとしている。青年時代の彼は両親に押し付けられた結婚から逃れるために、そして西洋の近代科学を学ぶために来日し、中華民国国費留学生のエリートとして一高特設予科、六高を経て九州帝国大学医科大学に進学してきたのである。医学を志していたが、独、英、日の三ヵ国語に堪能だった彼は近代西洋の文学名著を幅広く読みあさり、人文科学の滋養を十分に得ていたのである。私生活の面では、彼は敢えて中国の封建的な婚姻制度に反抗し、六高時代から東京築地の聖路加病院の看護練習生だった日本人女性佐藤をとみさんとの出会いをきっかけに、彼女と生涯を共にする夫婦の契りを結んだ。

郭沫若一家〈1923年〉
 一九一八年九月、郭沫若は日本人妻と幼い子を連れて岡山六高から九州帝国大学に進学した。一九二三年三月三十一日医学士で卒業するまで当時の福岡市外箱崎網屋町海岸一帯で四年七ヶ月にわたる留学の日々を送った。彼は西洋医学を学びに来日したのだが、まもなく医学だけでは中華民族が到底救えないことに気づき、医学の勉強を続けながら活発な文学活動を展開させたのである。日本で帝大系の留学生有識者を集め、二十世紀二十年代中国文壇に強い影響を与えた文学グループ――創造社を起こし、自らリーダーとなって福岡と上海間を行き来して文学活動に奔走していたのも九大医学部在学中のことだった。

 博多湾は郭沫若にとって単なる留学生活の場のみならず、また彼の初期文学活動の舞台でもあれば、同時代の中国新詩壇を震撼させた画期的な詩集『女神』を直接生み出した母なる自然でもあった。いつも穏やかで女性的な博多湾を一瞬にして得体の知れぬ強暴なものに変えてしまう二百十日の台風、白い砂浜に残る我が子の足跡、海岸を覆う松原の長閑さを破る鹿児島本線蒸気機関車の汽笛、西公園の花見、こうした博多湾の美しい自然は彼の心を癒し、詩情を育んでくれた。一九一九年秋からの第一次詩歌創作のピークが訪れた際、彼は半ば撹乱状態に陥るほど噴出する詩をひたすらに書き続けた。その結果として「鳳凰涅槃」、「天狗」、「炉中煤」、「立在地球辺上放号」、「太陽礼賛」のような中国現代詩歌史上の不朽の名作が生まれた。彼は愛から生きる力を、博多湾の自然から詩作のインスピレーションを得ていた。彼の詩のもつ超人的な破壊力と未来への憧憬は中国の人々に旧社会を打ち砕き、そして自ら新しい中国を創りだすパワーを与える役割を果たしたのである。

本部事務局内にある郭沫若の書

 郭沫若は九州帝国大学医学部を卒業したものの、帰国後医者にならなかった。彼は詩人として中国文壇での地位を獲得した後、小説、詩劇、とくに史劇の面では数多くの名作を残した。一九二六年から翌年まで続く国共両党の合作による北伐国内戦争の時に、彼は国立広東大学文系院長を辞して従軍した。革命軍総司令部政治部主任(中将)に昇進したものの、最後には蒋介石への反目で国民党政府から指名手配を受けて追われる身となった。

 一九二八年二月、郭沫若は家族を連れて妻の母国である日本に亡命した。それからの十年間、彼は憲兵と外事警察の二重監視下に身を置かれながら、中国古代史研究に没頭し、『中国古代社会研究』をはじめ、『甲骨文字研究』『殷周青銅器銘文研究』『両周金文辞大系』『金文叢考』『金文余釈之余』『卜辞通纂』『古代銘刻匯考四種』『古代銘刻匯考続編』といった古文字学および考古学の領域における画期的な研究成果を上げた。

 一九四九年社会主義中国誕生後、郭沫若は中華人民共和国政務院(現在の国務院の前身)副総理、中国科学院院長、中華全国文学芸術界連合会主席、中日友好協会名誉会長などの要職を務めてきた。彼は自伝『創造十年』等の中で母校九州帝国大学の留学生活にしばしば言及し、多くの恩師の名前を挙げて感謝の気持ちを書き残している。

(Jiping WU 中国現代文学)

九州帝国大学医学部卒業写真
(前2列目左から2番目の
座っているのが郭沫若)
福岡市荒戸の自宅にいる恩師中山平次郎先生(右端)と弟子の郭沫若(中央)の再会〈1955年〉


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