毎日新聞「理系白書」取材班キャップとして記者活動を続けている元村有希子さん。元村さんは、九州大学教育学部の出身で、このインタビューの直後には「第一回科学ジャーナリスト賞」の大賞を受賞されるなど、その活躍には目覚ましいものがあります。今回の九大人は、六本松キャンパスでの「社会と学問」の講義の後、自身の九州大学時代の思い出やこれまでの記者活動、将来へ向けての展望などを伺いました。

カウンセリングと記者としての取材は、
共通の要素を多く含んでいる

九大新入生歓迎 ソフトボール大会で(1985年)

― 六本松キャンパスへ来られたのはほぼ二十年ぶりということですが、まずその感想からお聞かせください。

元村 今日楽しみにしていたことが二つありました。一つは、学生時代に住んでいたアパートがまだあるかどうか確かめたかったこと。もう一つは、学食の二階にあった軽食喫茶の「スパゲッティ・ジロー風」を食べることだったんです。それを食べたいがために、こちらに来る飛行機も一本早いのにしたくらいです。それで、アパートは今も残っていたのですが、「スパゲッティ・ジロー風」は無くなっていました。夢が叶わなかったのが残念で、寂しさもあり、時間の流れも実感しましたね。

― その頃、特に印象に残っている思い出はありますか。

元村 六本松に住んでいた頃は、八畳くらいのワンルームだったのですが、友達が入れ代わり立ち代わり、いつも二十人くらい遊びに来ていました。いわゆるたまり場.ですね。みんな、「講義に出るから帰って」と言っても、帰ってくれなかったんですよ。一度、母が訪ねてきて、驚いていました。人が集まってくるというか、そういう意味では学生時代、友人にはとても恵まれたと思います。

― 友人は学生時代の財産の一つですよね。ところで、学生としての毎日は充実していましたか。

元村 実は、六本松キャンパスで過ごした一年半ほどはあまり講義に出ていなくて勉強にも身が入りませんでした。大学に入って最初の頃、講義で先生が話されていることがまったく理解できなかったんです。こんなにわからない世界があるのだと、頭を殴られたような感じで、怖いなと思った記憶があります。それで講義に出なくなってしまったのです。本格的に勉強しはじめたのは、箱崎に移ってから。私は、高校の頃からカウンセラーという仕事に興味があって、九大の教育学部に臨床心理学を専攻できる場があるということで進学したのですが、本格的・実践的にその勉強ができるようになったことと、勉強そのものがおもしろくなってきたことが、前向きになれた大きな理由だったと思います。

― カウンセラーを目指していたということですが、卒業後、毎日新聞に入られたのはどのような理由からなのですか。

元村 志望した理由は単純で、友達から一緒に受けようと誘われたからです(笑)。就職が内定してから新聞記者としての勉強をはじめたような状態だったので、最初はいろいろ苦労もありました。でも、仕事を始めて気がついたのですが、私が大学で勉強をしたことと結局つながっていたんですね。それは、人といかに上手にコミュニケーションするかということです。目の前の患者や取材対象に対して、どのような話を聞いて、どうそれを受容し、共感して、何を観察しなければならないか。そして、冷静な視点も忘れずに物事を見つめる。カウンセリングと記者としての取材は、共通の要素を多く含んでいると私は感じました。

― いろいろ苦労も、というお話が出ましたが、その頃のエピソードなどがあればお聞かせください。

元村 私が記者になった頃は、まだ女性記者の数も少ない時代でした。ですから、取材先で新聞記者だと思ってもらえないことがよくありました。アポイントと取って訪ねて行っているのに新聞の勧誘だと思われたり、取材に行って、学生新聞ですか?と言われたこともあります。どこでも珍しがられましたね。
そういえば、五木寛之さんの講演があり、その記事をまとめるという仕事があったんです。上司が指示するのを忘れていて、突然行って来いと言われたのですが、会場に着いたときにはもう終わっていました。とても失礼だとは思ったのですが、五木さんをつかまえて、何を話したか教えてくださいと頼んだことがありました。五木さんはあきれながらもきちんと対応してくださって。今なら絶対にできないことですね。新米記者だけに怖いもの知らずでした。

― 現在は、科学環境部という部署に所属されているわけですが、それまでの経緯を教えてください。

元村 最初の九年間は九州の中で報道部や社会部に籍を置きました。それから東京本社に転勤になり、編集の仕事に三年半携わって科学環境部へ配属になりました。特に、編集の仕事は、記者は必ず一回は経験するよう求められるのですが、新聞の作り方を一から学ぶという意味でとてもプラスになりましたね。この仕事は、紙面をレイアウトしたり、記事の重要性を判断するのですが、全国から集まってくる記事をどのように紙面で扱うかを自分で決定する責任の重い仕事です。
七年前に「旧石器発掘捏造事件」というのがありましたが、あの日の一面を作ったのは、私なんです。毎日新聞がスクープした記事で、仕事として充実感がありました。実は、決め手になった捏造の現場をビデオに撮った取材班の一人は、今、科学環境部で一緒に働いている後輩で、九州大学農学部の出身者なんですよ。



科学に詳しくないなら、
読者代表として自分がわかるような
記事を書こう。

― あのような大きなニュースに、九州大学のOBが二人も関わっていたのですね。現在所属されている科学環境部での仕事についてお聞かせください。

元村 毎日新聞の科学環境部というのは、社会的に重要なテーマとなっている環境を含め、様々な社会の事件を科学的視点で取材し、記事を書くというスタンスの部署です。それからもう一つ、社内のシンクタンク的な役割があります。いろいろな部署から来る科学技術に関する問い合せがあれば、それに応えるという役割ですね。例えば、経済部は経済には詳しいのですが、メーカーが作っている半導体の仕組みのことはわからない。そこを、私たちが専門の人に取材して記事を補強するわけです。現在は取材の間口が広がっていますから、瞬発力と人脈が重要です。この事ならあの人に聞けばわかる、と瞬時に判断していち早く取材する。そういった部分にも面白さを感じますね。

― 元村さんは「理系白書」という企画に、中心となって取り組んでいらっしゃいますね。

元村 「理系白書」は、始めて五年目になります。そもそも、科学環境部に配属になった当初、文系の自分が科学技術を取材するってどうしたらいいのだろうという戸惑いがありました。そのような中で、日々研究者の方たちに会ううちに二つの発見があったんです。一つは、科学に詳しくないなら、読者代表として自分がわかるような記事を書けばよいのではないかということ。これなら私にもできるという思いですね。もう一つは、研究者、科学者は、とても面白い人たちだということだったんです。それぞれに個性的で、ツボにはまる質問をすると、いきなり目を輝かせて一生懸命語り出す。こんなに目をキラキラさせる大人がいたんだと、新鮮な気持ちでした。
自分が面白いなと思ったことは、人にも伝えたい。それが、「理系白書」につながる最初のきっかけだったと思います。

― それがどのように「理系白書」という企画につながっていったのでしょうか?

元村 具体的なきっかけは、二〇〇一年のノーベル賞です。科学記者にとってノーベル賞は年に一回のお祭りみたいなもので、新聞社は五十人から六十人くらいの日本人研究者に事前に取材して、受賞した時の準備をするんです。この年は、野依良治さんがノーベル化学賞を受賞したのですが、よく考えると他の五十九人への取材が無駄になってしまう。それを、無駄にしたくないという思いと、研究者は面白いという以前からの印象が重なって、科学に熱中している人の企画をやりたいと上司に相談しました。そのときに上司から、理系の子たちは一生懸命学校で勉強してきたのに、社会に出ると報われないといった現実を絡めてはどうかというアドバイスをもらい、「理系白書」はスタートしました。

― 一冊の本にもまとめられて、六月には文庫本にもなりました。長く続いていますね。

元村 連載中からかなり反響があったんですよ。理系の人の顔.がよく見えるとか、反対に、これを読むと子供を理系に進ませたくなくなるという親の意見もありました。生涯賃金を比べると、文系より理系の方が少ないという推計があるんです。でも、この企画の根底には「理系への応援歌」的なメッセージがあります。文系の人たちや、科学技術行政に携わる官僚の間にも浸透し、私たちが指摘した問題の一部は政策にも反映されています。
最初は、一年半で終る予定だったのですが、本を出した頃から反響が大きくなり、結局今も続いています。でも、科学と社会の問題を取り上げていくと、ネタは尽きませんね。理科離れは、教育問題に。女性研究者が少ないということは、男女格差の問題に。外国人研究者が少ないということは、日本の国際化に。そんなふうに、どんどんつながっていくんですよ。

― ジャーナリストとして、今後どのようなテーマをお持ちですか?

元村 個人的には、社会の主役である市民がどうすれば科学と仲良くなれるのか、どうやったら科学をきちんと等身大で見られるようになれるのかに関心があります。科学や技術は、社会のためのものです。でも、原子力や生命倫理の問題など、負の側面も持っている。それらが自分の生活に影響してくる世の中になっているのに、みんな、無批判過ぎると思う。それは科学がわからない、自分たちにあまり関係のないものだと思っているからかもしれません。私も、いつまでも今の部署にいるわけではないと思いますが、科学と社会との関係をずっと気にしながら、記者の仕事を続けていきたいと思っています。

― 最後に、後輩達や九州大学へメッセージをお願いします。

元村 学生のみなさんには、今しかできないことを欲張ってやってほしいと思います。たくさんの時間を自分で自由に使える期間は、学生時代しかありません。本を読んだり、恋愛をしたり、何かに怒ったり感動したり、いろいろな事に興味を持って、どん欲にチャレンジしてほしい。それは、今が、一人の魅力ある人間としての感性を育てられる最後のチャンスだと思うからです。

(二〇〇六年五月十七日、於六本松キャンパス)


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