九州大学のベトナム交流秘話

緒方 一夫
熱帯農学研究センター・教授



1 「ハノイ農業大学強化計画」

 九州大学は一九九八年から二〇〇四年にかけてJICA(現国際協力機構)による「ハノイ農業大学強化計画」を支援しました。これはベトナムの高等教育向上をはかるプロジェクトでした。この交流は実は九大とベトナムの間の旧い縁の延長にあったのでした。本学で学んだ二人のベトナム人を紹介しましょう。

2 ルォン・ディン・クア博士

 一九九七年にハノイ農業大学を初めて訪れた時、その大学博物館を見学する機会がありました。その展示に、一枚の旧い白黒写真がありました。それは、たわわに稔る田んぼの中で農民に説明をしている人物のものです。同行のベトナム人教員が説明するには「彼はベトナム農業の父と称される方で、ベトナム人なら誰でも知っています。九州大学を卒業しているのですよ」とのこと。

 さっそく日本に戻って農学部同窓会名簿を手繰ってみると昭和二十二年卒業の欄に「梁 定国」と書いて「Luong Dinh Cua」という名前がありました。ただし、ルォン・ディン・クア氏の足跡はわかりません。二〇〇〇年に中村信子さんという方が出版された「ハノイから吹く風」という自伝で謎は解けました。実は中村氏はクア氏の夫人で、太平洋戦争の末期、本学農学部の作物学教室研究補助員だったそうです。彼女の語るクア氏は優しいけれど高い志の方と偲ばれます。クア氏は一九四二年より日本へ留学し、二年後に九州帝国大学農学部の三年次に編入、太平洋戦争の終了を福岡で迎え、中村氏と結婚、一九四七年に最後の帝国大学生として卒業後、京都大学で学位を取得しています。一九五二年に抗仏戦争下の祖国に戻り、激動の時代を農学者として祖国の発展に捧げ、一九六六年にはベトナム政府より「労働英雄賞」を授与され、一九七五年に五十五歳で亡くなられています。中村氏と出会ってからのクア氏については彼女の著書をご参照下さい。

 アジアからの留学生には歴史があります。太平洋戦争下では国際学友会という組織が南方(現在の東南アジア)から有望な人材を「南方特別留学生」として招致していました。彼らは戦況の激化とともに大東亜省の強い統制下におかれ、中国・九州へと疎開させられています(永井他、一九七三)。クア氏が九大へ編入されたのはこのような事情があったのでしょう。

 ベトナムではクア氏の名前を冠したコメ、サツマイモなどがあり、ハノイ市やホーチミン市には彼の名を冠した通りがあります。今日でも偉大な農学者として称えられている証です。私はハノイの「クア通り」を見たくてタクシーを飛ばして訪れたことがあります。大きな通りでこそありませんでしたが、路上には果物や小物が並べられ、バイクや人が行き交うところでした。通りの標識を仰ぎ見て、ちょっと感激したことを憶えています。

中村信子著 「ハノイから吹く風」 ルォン・ディン・クア氏。写真はハノイ農業大学の大学博物館での展示より。解説では1963年の撮影となっている。
ハノイ農業大学

3 ヴォー・トン・スン博士

 ベトナムの農学者を語るとき、もう一人忘れてはならない人物がいます。南ベトナム出身のヴォー・トン・スン(Vo Tong Xuan)博士です。彼は当時熱帯農学研究センターの教官だった井之上凖博士の下で学位論文をまとめ、一九七三年に本学にて農学博士の学位を取得されています。そして一九九三年にはアジアのノーベル賞ともいわれるマグサイサイ賞を受賞しています(Annon., 1993)。

 スン博士については有名な逸話があります。彼は南ベトナムのカントー大学の教員でした。この大学はメコンデルタの中心的大学です。スン氏はベトナム戦争が悪化し、他の教員たちが難を逃れてカントー市から脱出していく中、最後まで大学に踏みとどまります。北ベトナム政府軍がカントー市まで攻め込んできた日も、黙々と大学の圃場で働いていたとのこと。北ベトナム軍兵士がその圃場までやってきた時、彼は「そこには作物が植えてある。勝手に入って圃場を荒らすな」と一喝したというのです。あっぱれ農学者!スン博士のご自宅におじゃました時のこと、九大の学位記が数々の賞与と写真の間に飾ってあったのが印象的でした。

4 「秘話」から語り継ぐ「歴史」へ

 二〇〇六年四月の時点では本学大学院生物資源環境科学府には二十三名のベトナム人留学生が在籍しています。彼らはみな「ルォン・ディン・クア」と「ヴォー・トン・スン」の名前を知っています。そして両氏とも九大とゆかりのあることを承知しているようです。だからこそ九大へ留学してきたのかもしれません。

 本稿は他での記事(緒方、二〇〇四)に手を加えたものです。このような逸話を「九大人」にこそ憶えておいてほしいと思い、改めて筆をとりました。



ヴォー・トン・スン氏(右)と井之上凖教授(当時)。1996年、カントー大学にて。 ルオン・ディン・クア氏の名前が冠された通り。ハノイにて。


おがた かずお

1956年生。九州大学熱帯農学研究センター教授。九州大学大学院農学研究科博士後期課程単位取得退学、熱帯農学研究センター助手、助教授を経て、2003年より現職。著書『ハチとアリの自然史』(分担、北海道大学図書刊行会、2002年)、『日本産アリ類全種図鑑』(分担、学研、2003年)、『昆虫たちのアジア』(共編著、九州大学出版会、2006年)など。


[参考文献]

緒方一夫 2004 伝説のベトナム人 福岡県JICA派遣帰国専門家Newsletter No.13: 123-124

永井道雄、原芳男、田中宏 1973 「アジア留学生と日本」NHKブックス、日本放送出版協会

中村信子 2000 「ハノイから吹く風」共同通信社

Annon. 1993 Biography of Vo Tong Xuan. (The 1993 Ramon Magsaysay Award for Government Service)
http://www.rmaf.org.ph/Awardees/Biography/BiographyXuanVot.htm


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