政治的な理由から長年にわたって日本からの支援が途絶えているアフリカ・スーダン。現地では感染症の広がりなどで多くの人々が苦しんでいます。そんな状況に単身身を投じ、医療援助活動に取り組んでいる九州大学出身の医師でNPO法人「ロシナンテス(※1)」代表の川原尚行さん。彼の情熱はスーダンと日本の多くの人々を動かし、いま少しずつ両国を結ぶ支援の輪が広がり始めています。

※1 ロシナンテス( TEL:093-922-6470)スペインの小説『ドン・キホーテ』の主人公の愛馬の名前「ロシナンテ」に由来



人の役に立ちたい、と一念発起
スーダンでの医療活動

―医学を志されたのはなぜでしょうか?

川原  子供のころから「人の役に立てる職業につきたい」と思っていました。医者というのは、直接人を助ける仕事です。小倉高校時代は将来のことなど全く考えずにラグビーばかりやっていたんですが、高校三年になってラグビー部を引退した後に自分を見つめ直すと、やっぱり医者になりたい。一生懸命勉強しました。九大医学部に入るのに二浪もしてしまいましたが(笑)。

―卒業後第二外科へ入られますが、ほどなく外務省の医務官になられましたね。

川原  大学を卒業してすぐ結婚し、お金がなかったので新婚旅行もハウステンボスでした。海外に行ったことがなくて、ずっと行ってみたいと思っていました。その頃、外務省が、医療支援の必要な国に医師団を派遣するために医務官を募集していました。その募集を知って無性に行きたくなり、当時第二外科の教授だった杉町先生にお願いして応募しました。

―その時の経験がその後の道を大きく変えることになったのですね?

川原  まったく未知の世界でした。それまでは外科医として一生懸命勉強をしていたんですが、一転してアフリカで外務省の医務官としての暮らしです。ものの見方考え方、あらゆることが変わった貴重な体験でした。結局、一年間のつもりが三年半も過ごし、その後外務省枠で一年間、ロンドン大学で熱帯病と寄生虫学を勉強して、スーダンに赴任になりました。

 当時、スーダンは長い内戦状態が続き、しかもアルカイダのテロリストを擁護しているという国際的な非難を受けていました。つまり政治的な理由で日本からの援助も停止されていたんです。しかし現場を見ると悲惨な状況なんですね。感染症で苦しんでいる子どももたくさんいる。そんな中で、日本が以前援助の一環で提供したイブン・シーナ病院が、十年間援助が途絶えているにもかかわらず、すごく頑張っていたんです。古い医療機器をだましだまし使っていたりして、その様子に感銘を受けて、「これは何かしちゃらないかんな」と。それで、ボランティアで病院の手伝いを始めました。



苦しんでいる人々を放っておけない

―その後、外務省も結局お辞めになってしまいました。

川原  本来、医務官の業務というのはあくまでも日本人が対象なんです。しかし日本人はもともとそれほどいませんので、日本大使館には黙って現地の患者さんを看たりしていた。しかし、そうすると上から怒られるんですね。「政府が援助を止めているのに、再開したと思われるじゃないか。医者である前に外交官なんだから、ルールを守れ」と。確かにそうなんですが、自分の中ではやっぱり外交官である以前に医者だ、という思いの方が強かった。それならば外務省を辞めて、一人の医者としてスーダンに残ってやろう、と。このまま任期が過ぎれば別の場所に赴任しなくてはなりません。スーダンは世界でも条件の悪い地域ですから、次はヨーロッパなど環境のいい地域に赴任できるだろう、とは思いました。また外務省の医務官ならば、給料はいいしセキュリティもしっかりしていますが、それでも医者としてその現場を離れるということが心苦しかった。アフリカの現場を見てしまっていたのです。幸い、お天道様が見ていてくれているのか、現在皆さんの支えのお陰で何とか生きていけるし活動もできて、やりがいがあって充実きて、やりがいがあって充実しています。よかったかなと思っています。

―実際に現地はどのような状況なんでしょうか。

川原  病院があるのは主だった街に限られています。そこまで車で何時間もかかる村々が点在し、そのほとんどは医者もおらず診療所もない。医療そのものが存在しないような状態です。水はたいへん汚く泥水のようなものを飲んでいて衛生状態もたいへん悪い。マラリアが蔓延し、コレラなどの流行もある。そういうところを回っては、地域の支援者の家に泊めてもらい、家の一部屋や学校の教室を借りて診療しています。

―道具も電気もないわけです ね。

川原  聴診器と五感が頼りです。触って、見て、聴いて。今の日本の医者は五感を使わなくてもいいような環境になっているので、私自身も今トレーニングをしている状態ですね。体温計だけは日本からたくさん持って行っていますが、他の道具、例えばマラリアの診断に便利な簡易検査キット等は、高価なので常時は使えません。





多くのつながりに支えられて

―活動はどのように支えられているのでしょう? 

川原  第二外科をはじめ九州大学の方々や、ラグビー部をはじめとする小倉高校OBの方々が、本当に物心両面で支えてくださっています。ボランティアで企業を回って支援を集めてくださったり、中古の医療器械を世話してくださったり。去年の連休には元九州大学医学部で、現在は徳島大学にいらっしゃる吉住先生がスーダンまで来られて、講演や手術の指導をしてくださいました。

―少しずつ支援の輪も広がりつつあるようですね。

川原  横浜市からは、使用期限の迫った災害備蓄用の医薬品を提供していただき、また福岡県医師会と臨床外科医学会からは大型浄水器の購入費用をいただきました。今度、名古屋から医療機器メンテナンスの専門家においでいただこうと話を進めているところです。また、NTTのOBが作ったNPOの方々から、地方の村々に無線を設置し街の病院と繋いで急患に対処する組織づくりや、将来は放射線やCT画像を日本に送信して日本からアドバイスを受けるようなテレメディスン(遠隔地医療)もできないだろうかとお話をいただいています。これは先々、スーダンだけではなくタンザニア、ケニアなど東アフリカ全体に広げられればと思っています。

―先生の話を聞いて現地を訪問する学生たちも増えているようですね。

川原  夏休み、春休みには九州大学の学生も来ました。よく「今時の若者」と言われますが、スーダンに来るような学生を見ると、「ほんとにこいつらスゴイな」と思うことがいっぱいあります。考え方もしっかりしていますし、日本もまだ捨てたもんじゃないなと思いますね。私は私のやっていることをお見せするしかないと思っていますので、日本に帰国した時も、小中学校から高校、大学まで、お金は要りませんから呼んで下さいとお願いして講演しています。「こういう男もいるよ」と知ってもらうだけでいいと思っています。

 アフリカには今の日本にはない、すごくいいものがある。こちらから行った学生たちも「日本人が昔持っていて、今は忘れてしまったものを彼らは持っている」と口を揃えていう。そういうものにふれることで日本の学生に、日本人が忘れてきたものを取り戻してほしい。逆に日本も活性化できるのでしょう。だから「援助」という高みから一方的に見下ろすのではなく、援助させていただく、お手伝いをさせていただくという双方向の気持ちがないとだめですね。私も、勉強させてもらっていると思っています。



自分にできることをする

―これからの構想をお聞かせください。

川原  現在はカルテもなく、子どもの誕生日もわからないという母親も多い中で巡回診療をしています。そこで一つの地域をモデル地区として、日本の母子手帳をアラビア語に訳してスーダン流にアレンジしたものを導入し、保健教育や栄養指導も行い、さらには向こうの保健省と協力しながら病院を整備したり、感染症を中心とした総合的な疾病対策をやっていきたい。日本の医療システムのいいところを紹介しながら、それをスーダン流にアレンジして導入していければと思います。

 アフリカやアジアには、日本は戦争に負けても這い上がってきて世界のトップに立った優秀さと、超大国とは違うふた心のない誠実さがある、という日本ブランドが認知されています。日本からもアフリカからも、互いにいいところを教えあうといいと思います。

 また、感染症の陰に隠れていますが、実際には成人病やがんなどの病気もあって、手つかずのまま末期に至っている。去年は外科チームで手術を幾例もしたんですが、ほとんどがかなり進行していて、まともに切除できることがあまりありませんでした。イブン・シーナ病院という舞台があるので、こちらの大学の先生方とも相談しながら、なんとかこうした途上国、アフリカでのがん対策を援助できないかと考えています。

―日本からももっと多くの人に来てもらえるような仕組みづくりも必要ですね?

川原  きちんとした枠組みを作って行かなくてはいけないと思います。今は私は医療を切り口に活動していますが、やっぱり医療だけじゃダメな部分もある。水の問題をやり始めてそう思いました。農業も、教育の問題もある。そういった面でも何かをやっていかなくてはならない。実際に今シーズンは、私のポケットマネーで穀物の種をバーッと播いて、それが今一面に伸びています。帰ったら収穫作業をしなくてはならないんですけど(笑)。

―九州大学には、農学部も工学部もありますね。

川原  協力いただければ嬉しい限りです。高知大学農学部の先生がケナフという紙の原料になる植物の研究をされていると聞き、それをアフリカに植えてもらえないかな、と思い今度お訪ねすることにしています。場所はいくらでもあるし、それで生産性を高めて生活の向上にもつながれば健康水準も上がります。医療だけでは、どうしても病んだ人を治すというところから先に進めませんから。

―この先、どのくらいお続けになろうとお考えですか。

川原  区切りはとくに考えていません。こっちで五年、十年と区切っても向こうの人はずっとそこにいるわけですから。九州大学には中村哲先生というすばらしい先輩もいらっしゃいますし、負けないように頑張っていきたいと思います。

―最後に九州大学の後輩、九大生を志す高校生にメッセージをお願いします。

川原  最近よく話すんですが、南米アンデスの童話で『ハチドリのひとしずく』という話がある。森が火事で燃え、動物たちはいっせいに安全なところへ逃げ出している。ところがハチドリは燃えている森の中に飛び込んでは、口に溜めたひとしずくの水を垂らしている。動物たちはそれを笑って「そんなことをしても何も役に立たないじゃないか」と言う。でもハチドリは「僕は僕にできることをやっているんだ」と。それだけの話なんですが。要するに、私はたまたまアフリカで活動している。皆さんは皆さんで、日本にいてもできることはあると思います。その持ち場持ち場で一生懸命に、できることをきちんとやっていけば、「社会」としてはすごくいいものが出来ていくんだと思います。できることを成して、胸を張って生きていけばいい。そう思います。

―どうもありがとうございました。


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