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「椎葉平家まつり」と宮崎演習林
農学部附属演習林
宮崎演習林
西村 潤二


はじめに

鶴富姫に扮した本演習林勤務の椎葉庄子さん
 平家落人伝説の地、宮崎県椎葉村(九州大学宮崎演習林所在地)では、台風被害のため二年連続で中止になっていた「椎葉平家まつり」が、三年ぶりに十一月十日から十二日にかけて開かれ、三日間で約二万五千人の人出で賑わい、村は復興への活気で沸きました。

 このまつりのハイライトである平家の末裔鶴富姫と源氏の武将那須大八郎の悲恋をしのぶ「大和絵巻武者行列」において、今年のこのまつりの主役である鶴富姫に扮したのが本演習林勤務の椎葉庄子さんです。それでは以下に今年で二十回目を迎えた「椎葉平家まつり」についての紹介をしてみたいと思いますが、その前に、まず九州大学演習林、そして宮崎演習林がこの椎葉の地に設置されるに至った経緯とこの椎葉村に伝わる平家落人伝説についてふれてみたいと思います。


鶴富姫法楽祭


九州大学演習林の歴史

 九州大学演習林は、農学部の開設に先立つこと七年、本学の開学(医学部、工学部)の翌年、一九一二年(大正元年)に大学における基本財産林として、樺太及び朝鮮(のち南鮮と改称)に設置されたのをもって始まりました。翌一九一三年には台湾演習林が設置されました。

 一九一九年(大正八年)の農学部設立、一九二二年の林学科発足に伴い、大学演習林は農学部附属演習林となったものですが、当時有していた樺太、朝鮮、台湾の各演習林はいずれも外地にあり、福岡市からは距離的にも遠く、学生、教官の実習林としては不便でありました。そこで、林学科発足にあわせて一九二二年に早良(福岡市西区)及び糟屋(現福岡演習林―糟屋郡篠栗町及び久山町―)演習林が設置されました。

 その後、一九二六年には北鮮演習林が設置され、同年から、樺太演習林は収益を上げるようになりました。当時は、九州大学だけの独立した特別会計であり、年度末の剰余金は資金として繰り入れ、翌年度に繰越使用ができました。つまり、財務会計制度の観点からみれば、国の会計制度の一環としての国立学校特別会計(特会)が独法化後、現在の制度に変わったというよりも、元の会計制度に復したということになります。

 一九三〇年代には演習林は支出のほぼ倍の収入を計上するようになりました。例年、演習林のこの余剰資金は、当時、最初の建替え時期にあった医学部(一九〇三年設置の京都帝国大学福岡医科大学がその前身。さらにその前身である県立福岡病院が一八九六年にそれまでの東中洲から現在地に新築・移転)の建物、設備等に充てられていました。ちなみに、医学部(病院)地区にとって一九六四年(昭和三十九年)の「特会」法制定後の昭和四十年代の本格的な大学の施設整備の時代が第二回目の建替え時期にあたり、現在の病院地区の再開発事業が第三回目にあたります。

 このように演習林のこの余剰資金は、先発各学部の設備拡充に用いられていましたが、第三代演習林長片山茂樹の提唱により演習林自体の拡充整備にも充てられるようになりました。宮崎県内にその候補地を求め、県の協力のもとに民有地買上げによって一九三九年に椎葉村に宮崎演習林の設置をみたのはその成果であります。一九四五年の敗戦により、海外にあった演習林を全て失った本学にとって、この宮崎演習林設置の意義は大きかったといえます。

宮崎演習林事務所周辺(赤丸が事務所)


宮崎演習林の概要

 宮崎演習林は、宮崎県東臼杵郡椎葉村大河内に所在します。本演習林一帯は、熊本県の五家荘とともに九州山地のほぼ中央部に位置し、山間僻地の代表的地域です。気候は、山岳地帯ゆえに年降水量が多く(福岡市のほぼ倍)、気温の年較差、日較差ともに大きいことが特徴です。また、本地域は土石流や地滑りの災害常襲地域でもあります。昭和二十九年九月の台風襲来時には本演事務所所在地の大河内地区だけで十六名(椎葉村全体で二十四名)の死者を出す惨状でした。

 宮崎演習林は一九三九年に当時の民有林購入によって設置したことはすでに述べましたが、取得当時は、民有林時代にかなり大規模な伐採が行われ、炭焼きや焼畑による利用が相当進み、その跡地は二次林的に更新した低質の広葉樹林地帯となっていました。これを大学演習林にふさわしい教育・研究のフィールドへ林種変換するため、土壌の調査、試験的植栽、生長量調査、林道の新設などの科学的方法による森林の回復に意が注がれました。

 戦後のわが国の高度成長期の住宅政策に伴う木材需要による拡大造林政策によって、九州における奥地山岳地の天然林も次々と伐採され、スギ、ヒノキの人工林へと林種変換が進み、演習林周辺の天然林が急速に減少する中、演習林では、森林本来の持つ水源林としての役割や、山地崩壊の防止などを考え、できるだけ天然林を残しながら、その中に人工林を作る方式(細胞式森林造成)を採ってきました。その結果、現在では、全宮崎演習林の約八十%にあたる二千三百四十ヘクタールが自然林保全試験区に設定されています。九州山地の中でも、これだけまとまって一箇所に存在する天然林はほとんどなく大変貴重なものであり、地元の椎葉村ではこれを「九大原生林」と呼び観光パンフレットに載せているほどです。

宮崎演習林の事務所兼宿泊施設


椎葉村に伝わる平家落人伝説

 椎葉村は、行政のうえでは宮崎県東臼杵郡に属するが、地理的条件や同所への交通の便からみると、宮崎県というよりも、むしろ、熊本県人吉市及び同県球磨郡の経済・文化圏内にあるといえます。というのも、椎葉地方は江戸時代初期に幕府直轄の天領となったが、幕府は、同地方に代官などは置かずその支配を、人吉の相良氏に委ねておさめさせたからです。俗に「相良七百年」といわれるように、鎌倉時代の初期から明治の新政府による版籍奉還まで、人吉、球磨地方は一貫して相良氏によって治められました。このように、南北朝や戦国の世の争乱期を乗り切り、江戸時代初期の幕府による厳しい大名取り潰し政策を免れて、ともかくも鎌倉時代から明治の世を迎えるまで、七百年にもわたって、一貫して同一地方を治めた相良氏のような例は、全国的にみても珍しく、他には、薩摩の島津氏、対馬の宗氏などをかぞえるぐらいです。

土砂堆積及び道路決壊(国道388号線)

 椎葉村は、総面積に占める林野率が九十六%にも及び村内の大部分は山林原野で覆われています。今でこそ、自動車道路網の発達により、福岡市からでも三、四時間で行けるようになりましたが、その昔は日本の三大秘境の一つといわれ、現在でも深山幽谷の鬱蒼とした山林地帯の奥深さに変わりはありません。村民の生活や習慣には、今なお中世の遺風が色濃く残っているようにみえます。それ故に椎葉村は平家落人の格好の隠れ里として語られてきたのでしょう。

 一一八五年、壇ノ浦の合戦に敗れた平家の残党は、他に拠るべき処もなく、海、陸より諸方に離散しました。これらの平家落人伝説の地は、九州、四国を中心に、全国に百ヶ所をこえるといわれています。熊本県五家荘と並んで椎葉村は九州の代表的な落人の里として知られています。

 椎葉村に伝わる平家伝説は、屋島の戦いで、矢合戦の最中に平家方の大船団の中から漕ぎ出てきた一艘の小舟の上の扇を見事に射落としたことで有名な弓の名手那須与一に追討の命が下り、病気の与一に代わって弟の大八郎が椎葉の山中深く分け入りましたが、そこで大八郎が目の当たりにしたのは、すでに源氏に対する叛意も失せて、慣れない農耕にいそしむ平家一族の貧しい暮らしぶりでした。これを見た大八郎は追討を断念、鎌倉へは追討の任を全うした旨偽りの報告をして、自身もそこに残り彼らに農耕の手ほどきをし、平家の守りの本尊である厳島神社を勧請するなどして共に暮らすようになりました。

 やがて、大八郎と平家の末裔鶴富姫は恋に落ち、鶴富姫懐妊中に大八郎は鎌倉からの帰国命令により引き離されるといういわば悲恋物語ですが、この二人の悲恋物語を歌った「ひえつき節」はその後永くこの地で歌い継がれて現在にいたっています。この上椎葉の鶴富屋敷にまつわる言い伝え以外にも、椎葉村ではいたるところに平家伝説の跡が認められるといいます。


「椎葉平家まつり」の誕生

 椎葉村では、昭和三十年代はじめまでは全人口が一万人を超えていましたが、戦後の復興とともに、西都、西米良方面や人吉、球磨方面からも車道が通じ、自動車道路網が四方に整備されて、所謂都市化(文明)の波が押し寄せ生活が便利になるようになると、人口は逆に減少の一途をたどりはじめ、現在では最盛期の三分の一の三千五百人を割り込むまでになりました。それに符号を合わせるかのように林業を始めとして各種産業も徐々に衰退し村勢にも次第に陰を落とし始めていました。そのような中、椎葉村では、沈滞ムードを吹きとばすかのように、壇ノ浦の合戦から八百年後の一九八五年に「椎葉平家八百年まつり」を開催しました。このまつりは村内外の注目を集め大勢の見物客が訪れ好評を博しました。これを契機として、椎葉村では村おこしの一環として、翌年から「椎葉平家まつり」として毎年開催の運びとなり、例年観光客二万人を集める村最大のイベントとして定着しました。

 しかしながら、二十回目の節目になるはずだった二〇〇四年は、村中心部に通じる国道が全て崩壊する台風災害で中止、さらに、翌二〇〇五年は台風十四号による豪雨(九月五日、六日の二日間で一千十五ミリ―本演設置の雨量計―)のため村中心部の土砂崩れで三名が死亡するなど、村内の多くで電気、電話などのライフラインが壊滅状態になり、また、国道や県道など全ての幹線道路が不通となり、まさに陸の孤島状態が数日間続き、救助のため駆けつけた自衛隊員も車が通れずに死者を出した村の中心部まで徒歩で行かざるを得ないなどの大惨状を呈し、開催断念に追い込まれ二年連続で中止となりました。

大和絵巻武者行列(鶴富姫)
大和絵巻武者行列(那須大八郎)
那須大八郎・鶴富姫の逢瀬
陣屋敷に向かう鶴富姫



“まつり復活” 〜三年ぶりのお姫さまに本演の椎葉庄子さん〜

 この二年連続の台風被災により、それまで例年二十万人程度で推移していた観光客は、二〇〇四年には約十二万人、二〇〇五年には約七万人にまで落ち込みました。それだけに、三年ぶりに二十回目の節目となる本年の「椎葉平家まつり」にかける村役場、村民の意気込みには、復興への思いを込めた真摯なものが感じられ、その熱気には、見る者をして目を見張らせるものがありました。そんな中、本年のまつりの主役である鶴富姫役を、本演習林勤務の椎葉庄子さんがつとめることになりました。椎葉庄子さん自身、昨年の台風十四号襲来時には自宅のある下福良の桑の木原地区が孤立、通勤できない状況が二週間程続き、その後も、本来の通勤経路である国道の損壊が仮復旧する本年六月まで、迂回路である凸凹の山道を片道一時間半かけて通勤を続けるなどした被災者の一人です。比較的順調に災害復興一年を迎えたとはいえ、現在も、仮設住宅暮らしを余儀なくされている人が二十世帯以上あるなど、本格的な復興にはほど遠く、今なお、被災のツメ跡に苦しめられている村の現状や被災に遭った人たちを励ましたい、元気づけたいとの思いもあっての応募であるといいます。

 まつりは、初日の十日は午後六時から鶴富姫法楽祭。かがり火の中、御輿に乗った鶴富姫を鶴富屋敷から村役場横の中央特設ステージ(陣屋敷)まで運び、那須大八郎との再会。宮崎演習林での公開講座(2006年)神事の後、琵琶演奏と神楽奉納を行いました。

 まつり最大の呼び物である「大和絵巻武者行列」は、十一、十二日の両日午後一時から馬に乗った源氏の武将・那須大八郎が約二百人の行列を先導して、平家の末裔・鶴富姫を生家の鶴富屋敷まで迎えて、二人の悲恋物語を今に伝える民謡「ひえつき節」の歌詞にでてくる「逢瀬の儀」を再現の後、源氏方と平家方の双方合わせて約三百名の大和絵巻武者行列が上椎葉のメインストリートを練り歩きました。

 十一、十二日は、他に午前十一時からシシ鍋の振る舞いがあったほか、むらおこし物産カーニバルや村民、小、中校生による各種作品展、歌謡ショーなどが催されました。十一日の夕には椎葉各地区の神楽など郷土芸能の夕べが行われ、椎葉民俗芸能博物館では過去のポスターを集めた「平家まつり」ポスター展が開かれました。


おわりに

 宮崎演習林では、地域貢献、社会貢献の一環として、一般市民を対象とした公開講座を二〇〇四年から毎年秋に開催しています。本公開講座は講義や野外実習を通して、九州山地の森林や樹木、森林動物などの生態的特徴や、森と水の係わりに関する知識を深めてもらうことを目的として実施しているもので、過去二年は台風の影響等もあり、募集定員を充足することができませんでしたが、本年は台風被害等もほとんどなく、「白岳」の高橋酒造株式会社の協賛もあって募集定員の倍の応募があり、福岡市、下関市などから二十八歳から六十七歳までの幅広い世代の男女二十名(男性十四名、女性六名)が受講しました。また、同じく一般市民を対象とした森林教室を春の新緑の季節と秋の紅葉の季節に合わせて、年二回開催しています。この他にも、椎葉村や周辺地域の小、中学生による森林観察などを随時実施しています。

 二〇〇三年度には地域社会との連携を図る目的で宮崎演習林協議会が、二〇〇五年度には一般市民の森林への認識を高める目的で宮崎演習林インストラクター制度がそれぞれ発足しています。このように、宮崎演習林は、開かれた大学演習林を目指して、広く地域社会や教育関係諸機関との連携を図りつつ、なお一層の社会教育事業の推進を目指しています。

 最後になりましたが、本稿を書くにあたって、椎葉村企画観光課及び椎葉民俗芸能博物館の方には格別のご教示をいただきました。また、写真は、甲斐隆昌氏、内海泰弘氏、久保田勝義氏、井上幸子氏及び壁村勇二氏によるものです。この場を借りてあらためてお礼申しあげます。

 文章の中で戦前の海外にあった演習林については、当時、使われていた名称をそのまま使用しました。

(にしむらじゅんじ宮崎演習林係長)

宮崎演習林での公開講座(2006年)



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