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六本松キャンパス閉校式総長挨拶(2009年10月1日)

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六本松キャンパス閉校式総長挨拶(2009年10月1日)

 九州大学六本松キャンパス閉校式にあたりまして、九州大学を代表して一言ご挨拶申し上げます。

 本日は、ご多用中にもかかわらず、元部局長の方々、同窓会の方々、草ヶ江校区まちづくり協議会の方々など多数の方のご臨席を賜り誠にありがとうございます。これまで六本松キャンパスの発展に多大なご支援を賜りましたすべての関係者の方々に厚く御礼申し上げます。

 大正10年(1921年)の旧制福岡高等学校の創設から今日まで、11万人をはるかに超える多くの学生が学び、青春を謳歌した六本松キャンパスは、伊都キャンパスへの移転により、本日をもちまして、その88年の歴史に幕を降ろすこととなりました。私自身も、この六本松キャンパスで学びましたので、この学びの地は個人的にも多くの語りきれない思い出が詰まっております。

 六本松キャンパスの歴史を振り返ってみますと、大正中期の新高等学校令により地名等を冠した高校の増設が図られる中、1921年(大正10年)11月、旧制福岡高等学校が創設されました。以後、福岡高校は、戦中期の繰上げ卒業・修業年限短縮、学徒出陣等多くの困難を乗り越え、廃校までに約5千人の卒業・修了者を輩出しました。

 そして、1949年(昭和24年)5月、大学本体(いわゆる旧制九大)、福岡高校、九大附属医学専門部、久留米工業専門学校の4校が統合して「新制九州大学」が設置され、この六本松キャンパスは新制九大教養部の「第一分校」となりました。

 なお、新制九大には当初3つの分校があり、久留米市小森野町(こもりのまち)に「第二分校」が、久留米市国分町(こくぶまち)の旧陸軍跡地に「第三分校」が設置されました。この六本松キャンパスには福岡市及び近郊在住の文、理、両科の学生が、「第二分校」にはそれ以外の理科、「第三分校」には文科の学生が入学しました。しかしながら、「第三分校」は軍隊跡地ということもあり、同校自治会が統合移転を主張し、昭和26年に廃校となりました。また「第二分校」は水害被害や赤痢の流行等により昭和30年10月に廃校となりました。こうして、結局、九州大学の分校はこの六本松の「第一分校」のみとなり、昭和30年10月、その名も「九州大学分校」と改称されました。

 その後、「九州大学教養部」となりましたが、教養部の在り方が議論される中、1994年(平成6年)「教養部」が廃止され、他部局の振換え協力も得て大学院比較社会文化研究科及び大学院数理学研究科等が設置されたところであります。このように、この六本松キャンパスは長い間、九州大学の特に一般教育において大きな役割を果たしてまいりました。厳しい受験勉強から解放され、多くの学生が親許を離れて初めて生活する場所でありました。その意味で多くの卒業生にとって愛着の一層深いキャンパスでありました。

 九州大学は1991年(平成3年)10月に伊都新キャンパスへの統合移転を決定し、学内外の数多くの方々のご尽力により、伊都キャンパスの整備が進められてまいりました。特に、六本松地区の移転につきましては、法人化した利点を活かして、直接伊都キャンパスに移転する計画への変更を行い、本年4月より、全学教育、比較社会文化研究院及び学府、言語文化研究院、高等教育開発推進センター等、一部を除いた教育研究組織が、伊都キャンパスでの新たな教育研究活動を開始したところであります。

 そして、このたび、建設が遅れておりました数理学研究教育棟の新設、伊都図書館の増築が完了し、六本松キャンパスからの移転が全て完了する運びとなりました。これにより、念願の研究院レベルでの分断状態が解消されることとなりました。

 この歴史ある六本松キャンパスを閉校することは感慨深いものがありますが、九州大学は世界第一級の教育・研究と診療活動を展開し、アジアを重視した知の世界的拠点大学として、多くの留学生を引き寄せ、また、日本を代表する基幹総合大学として、都市と共に栄え、市民の誇りと頼りになる大学として、発展し続けることが期待され、宿命づけられています。六本松キャンパスはその役目を終えますが、その精神は伊都キャンパスへと引き継がれ、優れた人材が数多く育ってくれることを願っています。

 本日、ここに六本松キャンパスを閉校いたしますが、これからの九州大学へのご理解とご支援をお願いするとともに、折に触れて伊都キャンパスにも足をお運びいただき、新しいキャンパスで学ぶ学生達を激励いただければ幸いに存じます。皆様方のますますのご健勝を祈念し、私の挨拶に代えさせていただきます。

 本日は、誠にありがとうございました。

平成21年9月29日
九州大学総長
有川節夫