地域の知恵と科学の知見で豊かな水辺を守る
ナショナル ジオグラフィックの支援を受け、九州大学が福岡県朝倉市野鳥川流域で淡水環境保護の取り組みを主導
The original English version of the interview can be found here
福岡県朝倉市には、昔ながらの川の流れが残っています。現代科学が普及するはるか以前から、地域の人々は土地を改良してきました。林准教授と鹿野特任准教授らは地域社会と協力しながら、地域の暮らしのために受け継がれてきた伝統的な仕組みが、地域防災や生物多様性の保全など、河川の適切な管理にどのように役立っているのかを研究しています。
福岡県朝倉市の野鳥川には、数百年前に築かれた石造りの水路や護岸、護床工(ごしょうこう:河川の底が流水によって洗掘されるのを防ぐために設ける構造物)などの河川構造物が今も残っています。これらの構造物は、流域一帯へ水を供給し、下流へと流れをつないでいます。九州大学流域システム工学研究室の研究者たちは、この伝統的な水利用システムに注目しています。さらにプロジェクトの一環として、放棄水田を再生し、湿地や森林の豊かな生態系の維持にも取り組んでいます。
朝倉市の秋月地区は野鳥川流域に位置し、古くから栄えてきた地域です。九州大学工学研究院の林博徳准教授は取水口にしゃがみ込み、水路の土手に設置された小型センサーを調整しています。水は石張りの水路を流れ、貯水池へと流れ込みます。その数メートル先では、工学研究院の鹿野雄一特任准教授が浅瀬に手を伸ばし、カエルの卵塊を持ち上げています。光にかざして慎重に観察した後、卵をそっと水中へ戻します。
研究チームはニホンヒキガエル(学名:Bufo japonicus)などの種を追跡調査することで、環境再生の兆候を探し出そうとしています。プロジェクト名はCommunity-led nature positive restoration at watershed scale in a biodiversity hotspot of Japan(日本の生物多様性ホットスポットにおける地域主体の流域規模自然再生プロジェクト)です。このプロジェクトはNational Geographic Society's World Freshwater Initiative(ナショナル ジオグラフィック協会 世界淡水イニシアティブ)に採択された世界4件のうちの1件であり、日本から採択された唯一のプロジェクトです。
ニホンヒキガエルは秋月で生息が確認されている。野鳥川流域の面積は九州本島の面積のわずか0.02%であるが、九州本島に生息する10種類のカエルのうち9種類の生息地となっている。
林准教授は笑顔でこう語ります。
「地域の皆さんは、黄色い縁取りの『ナショナル ジオグラフィック』をよくご存じです。もともと住民の皆さんは私たちの取り組みに共感し、放棄水田を提供してくださいました。この取り組みがナショナル ジオグラフィックからも注目されたと知り、とても喜んでくださっています。」
林准教授は幼少期から長期休暇のたびに家族と秋月や野鳥川を訪れ、この地区に慣れ親しんでいました。子ども時代の理想的な遊び場であり、当時の経験が現在の研究の基礎となっています。河川の調査を始めてからは、次第に野鳥川の魅力に引き込まれていきました。同時に、この地域が抱える課題にも直面することになりました。それからというもの、豊かな湿地や森林生態系を維持するために、放棄水田の再生や地下水涵養機能の改善に取り組み、洪水や土砂災害リスクの低減にも貢献するための実践的な研究に従事してきました。
一方、鹿野特任准教授は淡水魚の研究を専門としており、河川の保全が人々の暮らしや農業、生態系を支える重要な要素であると考えていました。その思いは林准教授と共通しており、やがてプロジェクトに参加することになりました。以来、二人は流域内各地の水路や離れた調査地点を行き来しながら、多様な研究活動に取り組んでいます。
林准教授と鹿野特任准教授は、秋月で夜間調査を行いながらカエルの生態を記録する。カエルは夜間に最も活発に活動し、特に繁殖期にはその傾向が顕著になる。観測に適した天候になると、二人は福岡市から現地へ向かう。
林准教授が一歩ずつ踏みしめる石は、野鳥川の流路を固定するために築造当時の技術者によって作られた人工構造物です。伝統的な工法によって丁寧に作られた石造りの構造物は「石畳堰」などと呼ばれ、現在は秋月・野鳥川を象徴する風景となっています。秋月の水路や河川構造物の多くは江戸時代以前にまで起源をさかのぼります。住民たちは山から湧き出る水を灌漑に利用するとともに、洪水から集落を守ってきました。林准教授は、これらの石造構造物や里山景観の価値を早くから見いだした研究者の一人です。約15年にわたり、その保全と科学的評価に取り組んでいます。
林准教授は手についた泥を拭いながら語ります。
「この地域コミュニティは、長年にわたり私たちの研究の中心となっています。水路沿いで暮らす皆さんとともに活動を続けてきました。」
この取り組みのパートナーの一人が髙木氏です。髙木氏は1819年から続く、地元の本葛づくり職人一家の10代目に当たります。数十年前、髙木氏の父親は15年もの歳月をかけて、秋月の一角を花菖蒲の名所にしようとしました。しかし、維持管理には、あまりにも大きな労力が必要で、最終的には断念せざるを得ませんでした。
林准教授が初めてこの場所を訪れたとき、土地はほぼ手つかずの状態で残されていました。花菖蒲が咲いていた頃の記憶をたどりながら、林准教授の話はさらに続きます。
「近年の生物調査から得られた知見によれば、野鳥川流域は九州本島のわずか0.02%の面積にすぎませんが、九州本島に生息する10種類のカエルのうち9種類が確認されているのです。」
水辺に佇みながら、その話を聞いた髙木氏は当時を振り返ります。
「昔、僕たちは小さい頃、いろいろなカエルを見て育ちました。九州(本島)に生息するほぼすべてのカエルの種類がここにいるということに、ちょっと驚きました。」
林准教授と鹿野特任准教授のプロジェクトは、単なる研究の枠を超えたものとなっている。教育と地域コミュニティとの連携を通じて、地域主導の自然再生と災害に強い河川システムの構築を支援している。
髙木氏は研究の目的を知り、花菖蒲園の跡地をためらうことなく研究者たちに提供しました。そして、「代かき」と呼ばれる伝統的な水田整備のため、再びトラクターを動かし始めたのです。土を耕し、水位を調整する作業を2年間続けた結果、ようやく池の環境が安定しました。
午後になると、林准教授や鹿野特任准教授が大学院生たちとともに現地で活動する姿が頻繁に見られます。大学院生たちは腰の深さまで水に浸かりながら、アカハライモリ(学名:Cynops pyrrhogaster)などの生物の行動を観察し、記録しています。
林准教授は立ち止まり、池へと流れ込む水路に、数多くの大きな川石が敷き詰められている場所を指差しました。
「クレーンがない時代に、これほど大きな石を移動させて積み上げるのには、高度な技術が必要でした。」
鹿野特任准教授が話を引き継ぎます。
「秋月地区では、かつてこの技術を使って山頂付近から湧き出る水を管理していました。非常に優れた発想でした。しかし、その技術の多くは失われてしまったのです。」
地元住民からは、「コンクリート製の堰の周辺では護岸の被災が頻発しており、壊れやすいのではないか」との声が寄せられていた。そこで林准教授の研究チームは、その原因を検証するため、伝統的な石造りの堰とコンクリート製の堰とで、洪水時の水の流れにどのような違いが生じるのかを調査した。その結果、コンクリート製の堰では、石造りの堰と比べて洪水時の流速が30%以上速くなることが判明した。林准教授は、これらの研究成果を河川管理者や地域住民、施工業者と共有し、水流の勢いを弱める伝統的な構造の復元に取り組んだ。
鹿野特任准教授は堰の上から水辺を見渡しながら、岩や土を指し示して説明します。その語り口からは、景観を形づくる一つひとつに命が宿っているかのような思いが伝わってきます。
鹿野特任准教授は近年、山形県での調査において、これまで詳しい生態が分かっていなかったツチガエル(学名:Glandirana rugosa)が水中で鳴くことを明らかにしました。現在も、その行動や生息状況を継続的に記録しています。秋月でも、水中からかすかな鳴き声を発する生き物たちに強い関心を寄せています。
「地域の方々からは、こうした生き物を守ることが経済的な利益につながるのかと尋ねられることがあります。」
鹿野特任准教授の話はさらに続きます。
「しかし、秋月にとって自然環境そのものが重要な観光資源なのです。野生生物の生息地を守ることは、長期的には地域経済にもプラスの効果をもたらします。自然や生物多様性は、それ自体にかけがえのない価値があるものなのです。」
石畳堰は秋月の伝統的な河川工学技術の一つで、その歴史は江戸時代にまでさかのぼる。研究チームは、洪水時の流水エネルギーを低減する仕組みを明らかにするため、この石畳堰を対象に定量的な分析を行っている。
こうした取り組みの成果は、数日や数か月で測定できるものではありません。林准教授と鹿野特任准教授は、数百年という長い時間軸で地域の未来を見据えています。100年後、200年後にようやく完成形に近づくかもしれない景観を思い描きながら、研究と実践を続けているのです。成果がすぐに見えなくても、このプロジェクトには取り組む価値があるという揺るぎない信念が彼らを前へと突き動かしています。
少年だった頃に初めて目にした水路は、今もその場所に残っています。林准教授は、土手の一角に腰を下ろし、石と石の間を流れる水の動きを観察し、かつてとは異なる視点でその風景を見つめています。水流を再現した縮尺模型を用いて検証を行った結果、このような石畳堰では、でこぼことした石の表面が水流を分散させ、増水時の勢いを和らげることが明らかになりました。また、研究成果として、歴史的な石畳堰は現代のコンクリート製の堰と比較し、水量が最大になった際の水流エネルギーを約30%低減できることが分かっています。
鹿野特任准教授は、石と石の間の隙間が水生生物にとっても重要な環境になっていると説明します。石によって土砂が堆積し、水の流れが穏やかになることで、魚類や水生昆虫が身を隠せる場所が生み出されていきます。
夜間調査中に、ヒキガエルの生態について子どもたちに説明している林准教授。研究チームは、地域住民や子どもたちがフィールドワークに参加することを歓迎している。好奇心を持つ人々が科学を直接体験し、自然とのつながりを感じられる機会を提供している。
秋月を歩きながら語り合う林准教授と鹿野特任准教授の話を聞いていると、その景観を構成する一つひとつが大切な役割を果たしていることがわかります。石は渓流を形づくり、湿地は水を蓄えます。そして、昆虫やカエルたちは、それぞれの生息場所へと戻っていきます。こうした考え方は、日本に古くから伝わる八百万の神という自然観にも通じています。自然界を構成するあらゆるものには存在意義と価値があり、人間が自然を管理したり征服したりするのではなく、人間もまた自然との調和の中で生かされているという考え方です。
地域の職人や学生、そして代々この土地を耕してきた住民とともに、林准教授と鹿野特任准教授は、より良い川、より良い流域、そしてより良い社会の実現を目指しています。二人の描く未来は、その先へと続いています。日本人が育んできた自然観は、持続可能な社会を実現するための一つの答えになり得ると確信しているからです。一つの村で受け継がれてきた水との付き合い方や知恵が、やがて地球という水の惑星全体の水循環の未来へとつながっていく。二人はその可能性を信じています。
川は流れ続けています。岩にはゆっくりと苔が生え、水をたたえた田んぼには再びカエルたちが戻ってきます。そうした日々の営みの中で、自然はこれまでもずっと私たちに語りかけています。だからこそ、水のささやきに耳を澄ませることが私たちの役目なのです。
朝倉市内の秋月地区は城下町であり、研究以外でも林と鹿野は地域住民とともに時を過ごす。